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レンブラント・ファン・レイン

2023.10.22 ピックアップアーティスト

芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

レンブラント・ファン・レイン

今回は、オランダを代表する画家で、「光と影の魔術師」と呼ばれるレンブラント・ファン・レインをピックアップします。

レンブラント・ハルメンソーン・ファン・レインは、最も偉大な画家の一人とされ、17世紀のオランダの主要な巨匠の中でも最も重要な存在でした。
合計約300点の絵画、300点のエッチング、2000点の素描を制作したとされていて、バロックのスタイルにおいて、カラバッジョ主義に影響を受けており、光と影の効果を巧みに操り、キアロスクーロ技法(明暗法)を用いて観客を絵画の中に引き込むドラマチックなシーンを描きました。

レンブラントとその時代

レンブラントが活躍した17世紀は、オランダの黄金時代と呼ばれる時期でした。オランダはスペインから独立戦争を経て、ネーデルラント連邦共和国として独立を果たし、海運や貿易で大きな富を築いて、文化や芸術も発展しました。
オランダは宗教的に寛容であり、カルヴァン派の改革派教会が主流でしたが、カトリックユダヤ教など他の宗教も認められていました。
また、科学や哲学の分野でも進歩し、デカルトスピノザなどの思想家が活躍しました。

レンブラントはこのような時代に生まれ育ちましたが、政治や社会にあまり関心を示さず、芸術に没頭する道を選びました。
彼は自由な精神と創造力を持ち、伝統的な画法や規範に縛られることなく、自分の感性や表現力を追求しました。オランダの風土や人々の生活に触れながら、宗教画や歴史画、肖像画や風俗画など多様なジャンルの作品を制作しました。
また、エッチングやドローイングといった版画技法にも優れており、それぞれの分野で多くの傑作を残しました。

レンブラントの生い立ち

レンブラント・ファン・レイン
レンブラント・ファン・レイン

1606年7月15日、レンブラントは、オランダのライデンで製粉業を営んでいた父ハルマンと、パン屋の娘であった母コルネリアの間に、9番目の子どもとして生まれました。

7歳からラテン語学校に通い、14歳のとき、ライデン大学へと入学しました。大学では聖書や神話を学び、後の絵画に反映されています。
学問より絵画への興味を強く示したレンブラントは、大学を中退し、ライデンの画家ヤコブ・ファン・スワーネンブルフのもとへ弟子入りします。その後、アムステルダムのピーテル・ラストマンのもとで約半年学びました。

ライデン時代

1625年頃、レンブラントは、同じくラストマンの元で修行していたヤン・リーフェンスと共同で、ライデンに工房を構えます。
リーフェンスとは、緊密な連絡を取り合い、お互いに影響を与え合う仲でした。

レンブラントは、ピーテル・ラストマンの影響を強く受けていて
制作される作品のは全て新しいものでなければならない」というラストマンの教えに従って制作されていました。

この時期の作品は非常に小さく、衣装や宝石など細部に富んでいて、中心の出来事にすべての人物を集中させました。宗教的および寓意的なテーマを好み、また顔の表情を強調した肖像画も制作しています。
1626年には、レンブラントは最初のエッチングを制作し、これらのエッチングが国際的な評判に大きく貢献しました。

次第にレンブラントは頭角を現し始め、1628年頃には弟子を指導するようになり、多くの注文を受けるようになりました。
芸術評論家であったコンスタンティン・ホイヘンスは彼を称賛し、オランダ総督フレデリック・ヘンドリックは彼の絵画を購入しました。

暖炉の兵士

暖炉の兵士

1628年 ブリヂストン美術館

左下の焚き火と思われる光源を囲み、暗闇の中で複数の人物が会話している様子が描かれています。小品ながらも、光と闇の対比が画面にドラマティックな効果を与えています。腰に手を当てて立つ男の甲冑に反射する光の輝きやズボンの布地の光沢感など、繊細に描写されています。

シメオンの賛歌

シメオンの賛歌

1631年 マウリッツハイス美術館

この作品の制作時、レンブラントは25歳で、まだライデンに住んでいました。ヨセフとマリアは神殿で、生まれたばかりのイエスを捧げています。老人シメオンは、子供が長く待ち望まれてきた救世主であることを認め、イエスを腕に抱き讃歌を歌います。明暗のコントラストをはっきりと描き、緊張感のある劇的な印象を与えながら、重要な部分には目立つ色を使用して強調しています。

アムステルダム

1631年、レンブラントは交流のあった画商、ヘンドリック・ファン・アイレンブルフを頼り、アムステルダム移住します。
アムステルダムでの最初の数年間、レンブラントはアイレンブルフの工房からの助手の援助を受けつつ、多くの肖像画を制作しました。これらの肖像画は、小さなものから大きなものまで、依頼に応じて制作されました。1632年に医師のニコラス・ピーデルスゾーン・トゥルプが解剖学の講義を行う様子を描いた集団肖像画『テュルプ博士の解剖学講義』を制作します。この作品は高く評価され、レンブラントは一躍有名になりました。
この頃、大規模なドラマチックで対照的な聖書的および神話的な場面を描き始めます。これはルーベンスのバロック様式を凌駕しようとしたものでした。

1634年には、ヘンドリックの従妹である21歳のサスキア・ファン・アイレンブルフと結婚します。
父親が元市長で裕福な家系の娘であったサスキアとの結婚によって、制作活動に関する潤沢な資金と裕福な生活スタイルを手に入れた28歳のレンブラントは、上流階級の住む地区の豪邸へと引っ越しました。
サスキアはレンブラントの作品に何度も登場し、彼の愛する妻として描かれました。
順風満帆な彼らでしたが、子宝には恵まれず、3人の子供が生後数週間以内に死亡し、成人する事ができたのは、1641年に生まれた4番目の子供、ティトゥスのみでした。

この頃のレンブラントは、自らの制作スタイルに強いこだわりを見せるようになり、ほとんど肖像画の制作をやめ、弟子たちと共同で工房を運営しながら多くの大作を制作するようになりました。
また、多くの風景を描き、自然に関する多くのエッチングを制作しました。当時の彼の風景画は、しばしば雲が空を覆い、木々が根こそぎ引き抜かれた光景が描かれる傾向があり、これは彼に襲った家族の悲劇に対する感情の表れと考えられています。

1642年、アムステルダムの射手隊のメンバーの大規模な集団肖像画を完成させました。彼はこの作品に数年間取り組み、当時の集団肖像画の一般的な形式を革命的に変え、斬新な構図と色彩で描きました。
この作品は、後に『夜警』として知られるようになり、オランダの黄金時代の象徴として高く評価されています。

テュルプ博士の解剖学講義

テュルプ博士の解剖学講義

1632年 マウリッツハイス美術館

ニコラス・テュルプ博士が腕の筋肉組織を医学の専門家に説明している場面を描いています。単なる解剖学の授業の一場面ではなく、意図的に画像の中央に全身の死体を納め、劇的なシーンを構成しています。描かれている人々は作品に参加するために一定の金額を支払っています。

売春宿の放蕩息子

売春宿の放蕩息子

1637年頃 アルテ マイスター美術館

レンブラントとその妻サスキアの二人が描かれています。当時のプロテスタント界では、放蕩息子をテーマとした作品が主流とされていました。レンブラント自身の芸術的信仰と画家としての成功との間での葛藤する姿を表現していると言われています。後にX線調査によってサスキアとの間に別の女性が描かれていたことが分かっています。

夜警

夜警

1642年 アムステルダム国立美術館

アムステルダムの市民軍隊の隊長フランス・バニング・コックと副隊長ウィレム・ファン・ライテンブルフとその部下たちの集団肖像画で、従来の集団肖像画とは異なる斬新な構図や色彩で描いており、人物たちが出発する瞬間を捉えています。レンブラントは光と影の効果を駆使して、人物たちの個性や動きや感情を表現しています。

苦境

夜警』の制作中に、妻のサスキアが結核を患い、1642年6月14日に29歳という若さで亡くなってしまいます。
この時、息子のティトゥスはまだ1歳にも満たない赤ん坊で、レンブラントは世話役としてヘールトヘ・ディルクスを雇いました。
ヘールトヘもまた、36歳のレンブラントと同世代で未亡人だったこともあり、彼らはやがて親密な関係になっていきます。

しかし、レンブラントはサスキアの遺書による遺産相続の条件のため、息子のティトゥスが成人を迎えるまで再婚をすることができませんでした。
これに不満を感じたヘールトヘは婚約破棄を訴えて関係が泥沼化します。最終的にヘールトヘが宝石を盗んでいたことが発覚し、彼女の拘留により関係は終わりました。
レンブラントはこの数年間、制作はほとんどしておらず、ヘールトヘをモデルとした作品はほとんど残っていません。

1649年初頭、43歳のレンブラントはヘールトヘの後任のメイドだった23歳のヘンドリッキエ・ストッフェルドホテル・ヤーヘルと関係を持ち始めました。
富裕層である有名画家と若いメイドの関係は様々な疑念を向けられますが、1654年にヘンドリッキエは娘を出産します。娘はレンブラントの母の名と同じコルネリアと名付けられました。
サスキアの遺産に関する条件から、レンブラントはヘンドリッキエとも結婚できませんでしたが、彼らはその後も共に生活しました。

この頃の作品は、以前の強烈な光と影のコントラストから、正面からの照明とより大きく飽和した色へと変化しました。これらの古典的な構図と、豊かな筆触の使用は、ヴェネツィア派の芸術を意識したものと考えられています。
またこの時期は、絵画よりもエッチングを制作することが多くなり、自然のドラマは次第に静かなオランダの田園風景へと置き換わりました。

1950年代になると、レンブラントのスタイルは再び変化します。以前のスタイルや流行から距離を置き、絵画は再び大きくなり、色彩は豊かに、筆触は力強くなりました。光の扱いは荒々しくなり、光沢はほぼ完全に失われました。

水浴する女

水浴する女

1654年 ナショナル・ギャラリー、ロンドン

レンブラントを代表する作品の1つで、モデルは愛人ヘンドリッキエと言われています。白い布着を着た女性が川に足を入れて立っている様子を描いています。女性は裾をたくし上げていて両脚が水面に映し出されています。主題は不明ですが、聖書や神話をテーマにした作品と考えられています。

鎧を着た男

鎧を着た男

1655年 ケルビングローブ美術館

重い鎧と武器を身に着け、これからの戦いについて深い考えを持っているように見える若者を、偉大な力強さと痛切さを持って描いています。ヘルメットや鎧、円形の盾などが当時よりも古代の形で描かれているため、モデルは過去の人物であると推測されて、アキレスなどの古典的な英雄、あるいはマルスやアポロンなどの神々、またはアレキサンダー大王と言われています。

晩年

サスキアの死後、レンブラントは私生活の問題に追われ、制作による収入もままならない状況が続きました。
さらに、制作のための資料として芸術品や骨董品の収集に多額の資金を費やしていたため、レンブラントは財政的な問題に直面しました。
徐々に自宅のローンの返済が滞るようになり、1658年には家と家財道具が競売にかけられ売却されました。

自宅の売却後、レンブラントはアムステルダムの現在のローゼンフラフトにある小さな賃貸住宅に移りました。
1660年、ヘンドリッキエと成人を迎えた息子ティトゥスは、レンブラントの作品による収益を債権者の手から守るために工房を開き、そこにレンブラントを雇うという形で彼の作品の取引を保護しました。

経済的なトラブルが続き、財産を失ったレンブラントでしたが、最盛期ほどではないとしても画家としての評価は依然として高く、絵画作成の依頼はありました。
レンブラントは依然として多くの聖書のテーマを描いていましたが、ドラマチックな集団の場面から、自身やより親密な人物へと焦点が移りました。

この頃、ティトゥスが成人を迎え、サスキアの遺産相続の条件は無効となったため、レンブラントはヘンドリッキエと正式に結婚したと考えられています。
しかし、ヘンドリッキエはペストによって健康を害し、1663年に38歳で亡くなります。

ヘンドリッキエの死後は息子ティトゥスがレンブラントの作品を取り仕切るようになり、1667年、コジモ3世・デ・メディチがレンブラントの自画像を購入するなどしてレンブラントは再評価されつつありました。
ティトゥスは1668年に結婚しますが、数ヵ月後に妻と娘(レンブラントにとっての孫)のティティアを残し急死しました。

相次いで愛する者を失ったレンブラントは失意の中、娘のコルネリア、孫のティティアらと共に晩年を過ごし、1669年10月4日、アムステルダムにて63歳で亡くなりました。
死から4日後、2人の妻と息子が眠る地元の西教会の墓に埋葬されました。

修道士ティトゥス

修道士ティトゥス

1660年 アムステルダム国立美術館

画家としての事業を立て直し、破産から立ち直るという彼のキャリア後半の重要な瞬間に、修道士の習慣を持つ息子ティトゥスを描いています。歴史的または神話上の人物として描かれることが多かったティトゥスが貧しい僧侶として描かれたこの作品は、家族の貧しい経済状況を反映しています。

布地商組合の見本調査官たち

布地商組合の見本調査官たち

1662年 アムステルダム国立美術館

この作品は最後の偉大な集団的肖像画と言われています。男性たち(カロテに示されている従者であるベルを除く)は、織物職人がギルドのメンバーに販売する布地の品質を評価するために選ばれた呉服職人です。

63歳の自画像

63歳の自画像

1669年 にロンドンのナショナルギャラリー

1669年に遡る3点のうちの1点で、これは 1669年10月に亡くなる数か月前に描かれた、約80点の自画像シリーズの最後の1つでした。自信に満ちた自信に満ちたアーティストという印象を与えます。毛皮の襟が付いた深紅のコートとベレー帽を着て、手を握り締めて鑑賞者を見つめている自分を描いています。

レンブラントの影響

レンブラントは、生涯で約300点の絵画と300点のエッチングと2000点以上のドローイングを残しましたが、その多くは散逸したり破壊されたりしました。18世紀後半から再評価され始め、19世紀以降にはオランダ絵画史上最高の画家として認められるようになり、後世の多くの画家たちに影響を与えました。
フランシス・ゴヤドラクロワなどのロマン派、エドゥアール・マネファン・ゴッホと言った印象派の画家たちは、レンブラントの明暗法や色彩感覚や筆触などを学びました。
また、パブロ・ピカソジョルジュ・ルオーなどの近代芸術家たちはレンブラントの自画像や人間性や表現力などに感銘を受けたと言われています。


レンブラントは、オランダの黄金時代に活躍したバロック絵画の巨匠であり、光と影の効果を巧みに用いた作品で高い評価を受けました。
自身を歴史画家および肖像画家と考えており、自由な精神と創造力を持ち、伝統的な画法や規範に縛られることなく、自身の感性や表現力を追求し、オランダの風土や人々の生活に触れながら、宗教画や歴史画、肖像画や風俗画など多様なジャンルの作品を制作しました。
また、油彩だけでなくエッチングやドローイングといった版画技法にも優れており、多くの作品を残しました。
レンブラントは、オランダ絵画史だけでなく世界美術史においても重要な位置を占める画家です。彼は「光と影の魔術師」と呼ばれ、手がけた数々の作品は今なお私たちを魅了し続けています。

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