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ヨハネス・フェルメール

2023.09.03 ピックアップアーティスト

芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

ヨハネス・フェルメール

今回は、17世紀オランダの巨匠ヨハネス・フェルメールをピックアップします。

フェルメールは、生涯にわずか36点ほどの絵画を残したにもかかわらず、その繊細な光と色彩の表現で世界中の人々を魅了してきました。しかし、彼の生涯や作品については、長い間謎に包まれていました。今回は、フェルメールの時代背景、生涯、代表作品、影響などについて詳しく見ていきましょう。

フェルメールとその時代

フェルメールが活躍したのは、オランダ黄金時代と呼ばれる17世紀です。
この時代、オランダはスペインからの独立戦争に勝利し、商業や海運で大きな発展を遂げました。
商業や航海技術が進歩し、世界各地との交流が盛んになりました。また、宗教的な寛容さや市民的自由が保障され、多くの芸術家や学者が活躍しました。
特に絵画はオランダ人の嗜好や生活に密接に関わり、画家たちは市場や教会などからの注文だけでなく、個人の顧客からも多くの依頼を受けました。特に人気が高かったのは風俗画と呼ばれる日常生活を描いた絵画でした。風俗画は、オランダ人の自己意識や価値観を反映しており、家庭や仕事、娯楽などさまざまな場面を描き出しました。
フェルメールもこの風俗画のジャンルで活躍することになりますが、彼は他の画家とは一線を画す独自のスタイルを確立しました。

フェルメールの生い立ち

ヨハネス・フェルメール
ヨハネス・フェルメール

フェルメールは1632年10月31日にデルフトで洗礼を受けました。
彼の父親レイニエ・ヤンスは織物職人であり、高級サテン生地「カファ」を製造していました。1631年からはデルフトの聖ルカ組合に絵画商として登録されていました。この組合は画家だけでなく、彫刻家や陶器職人なども加入していた芸術家の団体でした。
フェルメールは父親から絵画商としての教育を受けたと考えられますが、誰から絵を学んだかは不明です。一説では同じデルフト出身でカラヴァッジョ派の影響を受けたレオナルト・ブラーメルが師匠だったと言われています。
フェルメールは若い頃から絵画に興味を持ち、自宅の屋根裏部屋をアトリエにしていたと言われています。

結婚と家族

フェルメールは1653年4月5日にカタリーナ・ボルネスと結婚しました。
カタリーナはデルフトではなくゴーダ出身でしたが、彼女の母マリア・ティンスはデルフトに住んでいました。彼女はカトリック教徒であり、裕福な家庭に育ちで、母親がカラヴァッジョ派の絵画を何点か所有しており、フェルメールに影響を与えたと推測されています。
フェルメールもカトリックであったと推測されますが、彼の宗教的な信念は作品にはあまり表れません。

結婚後、フェルメールは妻の実家に住み、そこで絵を描きます。
彼らは15人の子供をもうけましたが、そのうち4人は若くして亡くなりました。子供たちはほとんどが結婚せず、フェルメールの死後も母親や祖母と暮らしていました。
彼の初期の作品は、カラヴァッジョ派の強いコントラストやドラマティックな効果を取り入れていますが、フェルメール独自の光と色彩の感覚も見られます。

画商から画家へ

1653年12月29日、フェルメールは聖ルカ組合に画家として登録されました。これは絵画商だけでなく、自分で絵を描くこともできることを意味していました。
彼は当初、聖書や神話を題材にした大作を描いていましたが、1650年代後半から市民の日常生活を描く風俗画に転向しました。

彼の作品は、ほとんどが室内で一人か二人の人物が何かをしているというシンプルな構図で、その中に緻密な光や色彩、空間構成、心理描写を盛り込んでいます。
非常にゆっくりと作業を進め、高価な顔料を惜しみなく使っていました。そのため、作品数が少なく、また値段も高かったと考えられます。
彼の顧客層は限られており、主にデルフトやハーグの富裕層や貴族が彼の作品を購入していました。
彼自身も絵画商として他の画家の作品を売買しており、その収入で生活していたと思われます。

眠る女

眠る女

1657年 メトロポリタン美術館

誰も見ていないところで女中がこっそり何かをしている情景は、17 世紀のオランダの画家がよく用いたテーマです。しかし、若い女中がワイングラスの傍らでうとうとしているこの描写によって、フェルメールは道徳的な教訓の代わりに、ありきたりな場面を光と色、質感の探求へと昇華させました。倒れたグラスが描かれた前景(現在は擦り減ってしまっています)とシワの寄ったテーブル クロスは、今しがた出ていった訪問者を示しているかもしれません。

牛乳を注ぐ女

牛乳を注ぐ女

1658 - 1660年 アムステルダム国立美術館

女中が牛乳を注ぐ作業に集中している様子が描かれています。穏やかな静けさを感じさせる画面構成で、流れ落ちる牛乳の流れだけが唯一の動きとして表現されています。本作品の最も優れた特徴は、光の描写だと言えるでしょう。光の反射を表現した小さな点、特にテーブルの上にあるパンなどには、フェルメールの典型的な絵画技法が表れています。

画家として成功

フェルメールは日常生活の一場面を描いた内部風景画を得意としました。

彼は風俗画を描く際に、カメラ・オブスクラという光学的な装置を使っていたという説があります。この装置は、小さな穴から入った光を反射して、暗い箱の中に外界の像を投影するものです。フェルメールはこの装置を使って、自分の目では捉えられない光や色の効果を再現したと考えられます。

フェルメールは1660年代にはデルフトやハーグで評価されるようになりました。1662年から1663年まで聖ルカ組合の首領を務め、オランダ総督ヨハン・デ・ウィットやオランダ王ウィレム3世などの高位の人物からも注文を受けました。

眠る女』や『真珠の耳飾りの少女』などがあります。また、デルフトの街並みを描いた『小さな通り』(1658年)や芸術家自身を描いた『絵画芸術』なども制作しました。

真珠の耳飾りの少女

真珠の耳飾りの少女

1665年 マウリッツハイス美術館

フェルメールの最も有名な絵画です。肖像画ではなく、「トローニー」つまり想像上の人物を描いた作品です。トローニーとはある特定のタイプに属する、あるいは特徴を持った人物を描いた絵画で、この作品の場合は、異国風のターバンを巻いて不自然なほど大きな真珠を耳に付けた、エキゾチックなドレスに身を包む少女が描かれています。

絵画芸術

絵画芸術

1666 - 1668年 ウィーン美術史美術館

フェルメールが描いた最大の作品であり、芸術家自身を描いた自画像とも言われています。画面には背中を向けた画家とその前に座るモデルが描かれています。モデルはギリシャ神話の女神クリオーに扮しており、芸術の象徴として王冠や本や楽譜などを持っています。画家はモデルを見ながらキャンバスに描いており、その様子は背景に掛かった鏡にも映っています。フェルメールはこの絵画で、芸術家の創造性や技巧を表現しています。

天文学者

天文学者

1668年 ルーヴル美術館

フェルメールが描いた科学者を主題とした作品の一つであり、天文学者が本や地球儀などの道具を使って天体観測をする様子を描いた作品です。天文学者は白い服と赤いマントを着ており、その色彩は知識や情熱を象徴しています。天文学者は地球儀に手を置きながら空想にふけっており、その表情は好奇心と探究心に満ちています。

地理学者

地理学者

1669年 シュテーデル美術館

作業道具に囲まれて作業台の上にかがみこむ地理学者を描いています。この人物は、訪問者がある様子もなく部屋に1人きりのようです。床には紙が散乱し、部屋着を着ていることからも仕事に没頭していることが見て取れます。この場面は全体的に静まり返った雰囲気が特徴的で、主題である人物の右手は空中でその動きを止めています。

晩年

1672年、オランダはイングランド・フランス・ドイツの連合軍に攻撃されるという危機に直面しました。これは「災厄の年」と呼ばれる出来事でした。オランダは国土の大部分を占領され、経済的にも大打撃を受けました。

この影響は芸術界にも及び、絵画市場は急速に衰退しました。フェルメールもこの危機に巻き込まれて苦境に陥りました。彼は多額の借金を抱えており、また健康状態も悪化していました。

1675年12月15日、彼はデルフトで死去しました。
遺言書は残されておらず、埋葬場所も不明です。彼は妻と11人の子供に多額の借金を残しました。死因は不明ですが、ストレスや過労が原因だったという説があります。
彼の遺品目録には、未完成の絵画や画材だけでなく、カメラ・オブスクラや絵画コレクションも含まれていましたが、彼の死後、妻カタリーナは貧困に苦しみ、彼の作品を安値で売り払わざるを得ませんでした。

レースを編む女

レースを編む女

1670年 ルーヴル美術館

フェルメールが描いた最も小さな作品であり、レースを編む女性を描いた作品です。女性は白い帽子と青いエプロンを着ており、その色彩はレースの白さと対照をなしています。女性は熱心にレースを編んでおり、その様子は細部まで精密に描かれています。背景には絵画や地図が掛かっており、それらは芸術や知識の象徴として解釈されます。

信仰の寓意

信仰の寓意

1670 - 72年 メトロポリタン美術館

フェルメールが描いた数少ない寓意画。イタリア人美術学者の著書『イコノロジア』を表現したもので、信仰を象徴する女性像は、胸元に手が添えられて、信仰が心にあることを象徴しています。薄暗い背景に浮かび上がる黄金の杯と、鮮やかな金飾りが施されたパネルの前に置かれた暗色のキリスト磔刑像は、フランドルの画家ヤーコブ・ヨルダーンスが1620年ごろに描いた『キリスト磔刑』をもとにしています。

フェルメールの影響

フェルメールは生涯にわずか36点ほどの絵画を残しましたが、その作品は後世の多くの芸術家や作家に影響を与えました。
フェルメールの作品は、光と色彩の表現や空間構成などで高い評価を受けており、その美しさや静寂さは観る者の心に深く響きます。

印象派の画家、エドガー・ドガは、フェルメールの光と色彩の表現に感銘を受け『レースを編む女』を購入し、自分のアトリエに飾りました。彼はまた、フェルメールの『絵画芸術』を模写したこともあります。
フランスの小説家、マルセル・プルーストは、『眺めのいい部屋から見えるデルフト』(1660-61年)に感動し、自分の代表作『失われた時を求めて』(1913-27年)の中で、この絵画について詳しく語っています。
アメリカの小説家トレイシー・シュヴァリエは、『真珠の耳飾りの少女』に着想を得て、同名の小説(1999年)を書きました。この小説はベストセラーになり、映画化もされました。
イギリスの映画監督ピーター・グリーナウェイは、フェルメールの『絵画芸術』に興味を持ちました。彼はこの絵画に隠された謎や物語を探る映画『ナイトウォッチング』(2007年)を制作しました。


フェルメールは17世紀オランダの巨匠であり、日常生活を描いた風俗画で有名です。
彼は光と色彩の表現や空間構成などで高い技術と感性を発揮しました。彼の作品は後世の多くの芸術家や作家に影響を与えました。
彼はオランダ黄金時代の代表的な画家として、今もなお世界中の人々に愛されています。
光と色彩の美しさや日常生活の平和さを感じさせる彼の作品からは、私たちは彼の目を通して、17世紀オランダの人々の生き方や思いやりを知ることができます。

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