ARTSTUDIOWhitePallet

グスタフ・クリムト

2023.11.11 ピックアップアーティスト

芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

グスタフ・クリムト

今回は、オーストリアのウィーン分離派の中で最も著名な象徴派画家グスタフ・クリムトをピックアップします。

グスタフ・クリムトは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したオーストリアの画家です。金色で装飾された官能的な女性像や風景画で知られており、ウィーン分離派の創始者の一人として、オーストリア・モダニズムの先駆者となりました。 肖像画、寓意的な主題、裸体、肖像画、風景を描くだけでなく、デザイナー、装飾家、タペストリーとモザイクのデザイン、陶芸家、リトグラフ作家でもありました。

クリムトの主な主題は女性の身体であり、彼の作品は率直なエロティシズムを特徴としています。また、寓話や肖像画を含む比喩的な作品の中で、風景も多く描きました。ウィーン分離派の芸術家として、当時の保守的な美術界に衝撃を与え、多くの賞賛と批判を受けました。多くの芸術家と交流し、若い画家を支援するなど、オーストリア芸術に大きな影響を与えましたが、自身の作品についてはほとんど語らず、謎めいた人物としても知られています。

クリムトとその時代

クリムトが生まれた1862年は、オーストリア帝国がドイツ連邦に加盟していた時代でした。しかし、1866年に普墺戦争に敗れたことで、ドイツから離脱し、ハンガリーと二重帝国を結成しました。
この時期は、産業革命や鉄道網の発展によって経済的な繁栄を享受し、ウィーンでは多くの華麗な建築物が建設されました。これをグリュンダーツァイト(創業時代)と呼びます。一方で、民族主義や社会主義の台頭によって政治的な不安定さも高まりました。

文化的には、ウィーンは音楽や文学の中心地として栄えました。ヨハン・シュトラウス2世やグスタフ・マーラーなどの作曲家や、フランツ・カフカやアルトゥル・シュニッツラーなどの作家が活躍しました。
また、ジークムント・フロイトが精神分析学を創始し、人間の無意識や性欲について新しい見解を示しました。これらの文化的な動きは、クリムトにも大きな影響を与えました。

クリムトの生い立ち

グスタフ・クリムト
グスタフ・クリムト

1862年7月14日、グスタフ・クリムトは貴金属の金細工師である父エルンスト・クリムトと、リリック歌手の母アンナ・フィンスターの間に7人兄弟の次男として、ウィーン近くのバウムガルテンでに生まれました。
幼いクリムトは周囲の子ども達と馴染めず絵を描くことに没頭し、弟のエルンストと共に、父親の金細工師の仕事を手伝いました。

1876年、14歳のときに、ウィーンの応用美術学校に入学します。翌年、弟のエルンストも同学校へ入学し、古典作品の模写を中心とした古典主義的な教育を受けました。二人は装飾画家で彫刻家のフェルディナンド・ラウフベルガーに師事し、いくつかのプロジェクトで彼のアシスタントを務めました。
1879年、クリムトは当時のオーストリア絵画の巨匠として知られているハンス・マカルトの元で装飾家としてのキャリアをスタートさせます。当時クリムトは、マカルトに強い影響を受けていました。

1883年にはクリムト、弟のエルンスト、友人のフランツ・マッチュと共に「芸術家商会」という共同の工房を設立し、劇場や公共建築物の装飾を行うようになりす。
クリムトは主に壁画装飾を担当し、その写実的な描写は評判となり、皇后エリザベスの別荘や多数の劇場の装飾を手がけるようになります。1888年、26歳のときに皇帝フランツ・ヨーゼフから芸術的功績の金十字勲章を授与されました。
1890年には美術史博物館の大階段の装飾を担当し、「ハンス・マカルトの後継者」として評判を高めるようになりました。
ウィーン美術界における名声を確立したクリムトは、1891年にウィーン芸術家協同組合へ加入します。

順調に芸術家としての階段を昇っていたクリムトでしたが、1892年に父を脳卒中で亡くすと、同年、共に活動していた弟のエルンストも心筋炎で急死します。

弟の死後、クリムトは自分の母親と姉妹、弟の妻であった義妹ヘレーネ・フレーゲとその娘ヘレーネ・クリムトらと共に女性の多い環境で暮らしました。
ヘレーネ・フレーゲの姉であるエミリーエ・フレーゲとは特別な関係にありました。
エミリーエはファッションデザイナーとして妹のヘレーネと共に服飾店を経営していて、クリムトの作品に多くの影響を与えました。 彼女はクリムトと同居していませんでしたが、モデルとして、愛人として、伴侶として生涯にわたってクリムトとの関係を続けました。
クリムトはエミリーエ以外とも多くの女性と関係を持ち、公式に認知された非嫡出子が14人生まれたとされていますが、結婚することはありませんでした。

17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像

17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像

1891年 個人蔵

弟エルスンストがヘレーネと結婚した時、ヘレーネの姉である当時17歳のエミーリエを華やかで成熟した大人として描いています。

ヘレーネ・クリムトの肖像

ヘレーネ・クリムトの肖像

1893年 個人蔵

当時6歳であったヘレーネ・クリムトを描いた作品です。ヘレーネはクリムトの姪にあたる人物で、亡き弟エルンストとヘレーネ・フレーゲの娘です。クリムトは当時6歳であったヘレーネの保護者でした。

エミリーエ・フレーゲ

エミリーエ・フレーゲ

1902年 ウィーン博物館

エミリーエ・フレーゲは、ウィーンのはファッション・デザイナーでした。彼女はクリムトの友人であり、モデルであり、愛人でした。クリムトは彼女の肖像画を数多く制作しました。クリムトの作品に登場する衣服のいくつかはフレーゲ姉妹がデザインしたとも考えられています。

アカデミズムとの衝突

1894年、クリムトはフランツ・マッハと共にウィーン大学の大ホールの装飾の依頼を受け、3つの作品を制作します。

最初に制作された『哲学』は、その過激なテーマと内容から「ポルノ」と呼ばれ、大学から厳しい批判を受けることになりました。
これは伝統的な表現を期待していた大学の希望に反するもので、クリムトは教育を侮辱していると非難されました。

続いて制作された『医学』と『法学』は、さらなる批判を引き起こします。
クリムトは大学の要望を聞き入れず、これらの作品も最初の作品とまったく同じスタイルで制作したためでした。

結果的に、多くの批評家から批判を集め、大学へ展示されることはありませんでした。

これらの作品は、クリムトの支援者によって買い上げられ、後に分離派の展覧会で発表さます。1900年のパリ万国博覧会では金メダルを受賞しました。
その後、1945年にナチスによって破壊され焼失してしまいます。現在はモノクロの写真と一部の下絵のみが残っています。

哲学

哲学

1899年

クリムトは、ぼやけた輪郭を持つスフィンクスの姿で哲学を表現しました。その頭は星々に没頭し、周りには誕生から老いへと至る生命のサイクルが広がっています。画面の左前に、知識は冷たく暗い目を持つ女性の姿で現れ、観客を見つめています。

x
  • モノクロ写真
  • 下絵
  • AIによる復元イメージ
医学

医学

1899年

右側に半裸の人物の列があり、生命の川を表現しています。右手前にはギリシャ神話における医学の神、アスクレピオスの娘であるヒュゲイアが描かれ、その手元には杯を持ち一匹の蛇を従えています。 蛇もまた世界中で多く用いられている医薬のシンボルです。

x
  • モノクロ写真
  • 下絵
  • 習作
  • 部分
  • AIによる復元イメージ
法学

法学

1899年

年老いた裸の男性が被告人として法廷に召喚されている場面です。その周囲に3人の妖精、画面上部に真実、正義、法の3人の女神が描かれています。男性は巨大なタコの怪物の触手によって拘束されています。

  • モノクロ写真
  • 下絵
  • AIによる復元イメージ

ウィーン分離派

伝統的な絵画と自身の表現の間に大きな溝を感じたクリムトは、アカデミズムとの決別を決意します。

1897年4月3日、クリムトはコロマン・モーザー、ヨーゼフ・ホフマンらウィーン芸術家協同組合の19人の芸術家たちと共に保守的な美術家協会を脱退し、「ウィーン分離派」という名の新たな芸術家団体を結成しました。
このグループは芸術に捧げられた建造物を建てることを目指しており、この分離はクリムトと多くの他の芸術家がウィーンの学院派の「変化への抵抗」に対して、新しいアイデアに取り組み、変化していくことを示していました。

クリムトはウィーン分離派の最初の会長となり、その目的は当時の「オーストリア芸術の国際的な評価」でした。
この分離派のシンボルは、大義、知恵、芸術を司るギリシャの女神『パラス・アテナ』で、クリムトは 1898年にこの女神を主題とした作品を制作しました。
ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒは、芸術に特化した建物、「セセッシオン(分離派会館)」を建設します。この建物は、若い造形芸術家に作品の恒久的な展示の場を提供し、グループのアイデアを一種のマニフェストとして具体化していました。

1902年、クリムトはウィーン分離派の展覧会で『ベートーヴェン・フリーズ』を披露ます。
これは、建築家ヨーゼフ・ホフマンがデザインした音楽家ベートーヴェンの記念碑のための壁画で、長さ34.14m、高さ2.15mの7枚のパネルによるフレスコ画で、絵画、音楽、建築を組み合わせた総合芸術作品として壁に直接描かれました。

この作品は再び倫理観に対する激しい批判の対象となり「わいせつな芸術の分野で最も極端な例の一部」とされました。 しかし、フランスの彫刻家オーギュスト・ロダンは「寺院のような展示室とベートーベンの壮大なフレスコ画は、私がこれまでに経験したことがない壮麗な雰囲気を感じさせる。」と述べ、クリムトの作品を高く評価しました。

パラス・アテナ

パラス・アテナ

1898年 ウィーン博物館

女神の顔の下に舌を突き出しているゴルゴンを示すことで、古典的なインスピレーションの主題の伝統的な表現を転用しており、これは古風な時代の伝統的な表現です。

金魚(私の批評家たちへ)

金魚(私の批評家たちへ)

1901 - 1902年 ウィーン博物館

微笑む女性が見る者に向かってお尻を突き出しているこの作品は、大学の3点の絵画への批判に対するクリムトの回答でした。クリムトは当初この作品を「私の批判者たちへ」と題していましたが、1903年の分離派展に作品を展示する際、友人の助言を受け「金魚」に変更しました。

ユディト

ユディト

1901年 ベルヴェデーレ宮殿

斬首後にホロフェルネスの首を保持する聖書の人物ジュディスが描かれています。クリムトは絵画的表現としての物語への言及を一切無視し、ジュディスに血まみれの剣を持たせず、ホロフェルネスの首は右端で見切れる構図をとっていて意図的に表情だけに集中させています。

ベートーヴェン・フリーズ

ベートーヴェン・フリーズ

1902年 セセッシオン

このフリーズは展覧会のためにのみ作られ、軽い素材で壁に直接描かれました。高さ2.15m、幅34.14mで、重さは4トン。ベートーベンの交響曲第 9番に対するリヒャルト ワーグナーの解釈に基づいています。

黄金期

1903年、クリムトはヴェネツィア、ラヴェンナ、フィレンツェのラヴェンナのサン・ヴィターレ大聖堂を訪れました。
そこで彼はビザンティン様式の装飾的なモザイクを研究し、これらを自分の作品に反映させて独自のスタイルを生み出しました。

この時期の作品は、クリムトの創造的な「黄金期」とされています。
主にエロティズムのテーマを探求していて、官能的で神聖で宗教的な側面に近づくために金を使用して性を大胆に表現しています。
批評家たちは、これを「わいせつ」と非難しましたが、その作品は「見る者の美的な興味を引くものである」として禁止されませんでした。

クリムトは日常、下着を付けずサンダルと長いローブを着ていました。彼の簡素な生活はやや閉鎖的で、芸術と家族に専念し、分離派の活動以外ではほぼ外出しませんでした。
自分のことは秘密にし、個人的なスキャンダルを避けました。公共の場を避け、他の芸術家と交流することもほとんどありませんでした。
一方で、若い画家や女性モデルたちとは積極的に交流していました。

女性の三時代

女性の三時代

1905年 ローマ国立近代美術館

さまざまな年齢段階の女性が登場し、人生のサイクルを象徴しています。キャンバスの中心に人物を配置して作品の焦点となっています。背景に奥行きがなく平面的で、色は落ち着いた印象を与えます。2人の若い人物は青い背景につつまれ流動的な印象を与えますが、老婦人は流動的ではないパターンで描かれています。

ダナエ

ダナエ

1907 - 1908年ヴュルトレ画廊

父親のアルゴス王アクリシウスによって青銅の塔に幽閉されていたダナエを、ゼウスが黄金の雨になって塔に入りダナエの脚の間に流れる様子を表現しています。愛の神の代表的なシンボルとして描かれたダナエは、皇統を表す高貴な紫色のベールに包まれています。

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I

1907年 ニューヨークギャラリー

肖像画の大部分は、金箔と銀箔を使用し、その後、チョークまたは石膏を混ぜたジェッソを使用して、装飾的なモチーフを浅浮き彫りに追加するという手の込んだ技法によって行われました。この肖像画は黄金期におけるクリムトの代表的な作品です。

接吻

接吻

1907 - 1908年 ベルヴェデーレ宮殿

金箔、銀、プラチナを用い、アール・ヌーヴォーと初期のアーツ・アンド・クラフツ運動の有機的な形式の影響を受けたスタイルで描かれています。装飾された精巧な美しいローブを体に絡ませて抱き合う男女はクリムトとエミーリエ・フレーゲがモデルと考えられています。

分離派の終焉

1907年、クリムトは若い画家エゴン・シーレと出会います。
クリムトはシーレやオスカー・ココシュカといった若い才能を積極的に支援し、展覧会へ参加させるために尽力しました。
若い芸術家たちは、「表現主義」などの新たな芸術の方向性を示しました。
しかし、一部の排他的な分離派の芸術家からは批判の声が挙がりました。

そんな中、展示会に出展したココシュカの作品が批判を受けます。
クリムトはココシュカを擁護し、分離派内の対立がさらに激化し、硬直化状態になりました。このような背景で、クリムトは分離派を脱退する決断を下しました。

1909年以降、クリムトは新たなスタイルを模索し始めます。
パリを訪れ、ジョルジュ・スーラの点描画やフィンセント・ファン・ゴッホトゥールーズ=ロートレックなどの印象派やフォービスムの作品に興味を持ちました。
金を使った装飾を避け、鮮やかな色彩を用いて風景や装飾的な寓話的な場面を描き、ますます独創的になりました。

ひまわり

ひまわり

1907年 個人蔵

アッター湖北岸にあるアントン・マイヤーの農園の庭で描かれた作品です。内面性を強く反映したゴッホのひまわりに対して、クリムトはあくまでも自立する自然としての姿でひまわりを描いています。

帽子を被りボアを着けた婦人

帽子を被りボアを着けた婦人

1909年 オーストリア美術館

ボアは彼女の上唇のすぐ下に乗り、絵の中の女性たちは物思いにふける様子で彼女の口を指で動かします。女性の口元に微妙に注意を向けることで女性の官能性を示唆しています。髪と唇の赤みがかったピンクと、指と頬の落ち着いた色調が、黒に対して際立っています。

黒い羽根帽子の女

黒い羽根帽子の女

1910年 個人蔵

黒を用い、強い色彩のコントラストや形の歪みを高めることで、人間の苦しみや感情の表現を試みています。シーレやゴッホなどの表現主義からの影響をうかがえます。

晩年

晩年のクリムトは、より内省的な絵画を制作するようになります。
豪華に飾られた女性や官能的なポーズをとる女性たちは奇抜な衣装を着て、非対称で立体感や透視法がない構図で華やかに描かれ、あたかも彼が自分の世界から戦争を追放しようとしているかのようでした。

1910年、クリムトはヴェネツィアの第9回ビエンナーレに参加し、成功と名声を取り戻します。
そして、時事的なテーマに基づいて『死と生』を制作します。この作品は1911年ローマ国際博覧会で1位を受賞しました。

1914年に第一次世界大戦の勃発すると、1915年、最愛の母親が亡くなります。
彼にとって、家族は特別な存在であり、母親の死は彼に深い悲しみをもたらしました。彼の風景画は、鮮やかな色の代わりに、より暗いモノクロの影響が向けられました。

1917年、ウィーン美術アカデミーとミュンヘン美術アカデミーから名誉会員として選出された翌年、1918年1月11日にウィーンの自宅で脳卒中で倒れ、半身不随の状態になりました。
入院先で当時蔓延したスペイン風邪を患い、病床でエミリー・フレーゲを呼んだと言われています。
新聞は彼の病状を報道し、彼の作品に魅了された多くの人々が回復を祈る中、1918年2月6日に55歳で亡くなり、ウィーンのヒーツィング墓地に埋葬されました。

クリムトの財産は半分をクリムトの家族が相続し、残りの半分はエミーリエ・フレーゲに与えられました。

メーダ・プリマヴェージ

メーダ・プリマヴェージ

1912年 メトロポリタン美術館

オーストリアの実業家で銀行家のオットー・プリマヴェージの娘の肖像で、自信に満ちた表情で立つ9歳の少女を描いた作品です。他の女性肖像画と比べ装飾が少なく、輪郭線を中心に質素に描かれています。「黄金時代」が終了し、フォーヴィズムの影響がうかがえます。

乙女

乙女

1913年 プラハ国立美術館

絵の中のたくさんの花は、女性への進化を象徴しています。この絵には絡み合う6人の女性が描かれていて、それぞれの女性は特定のライフステージを表しています。この絵は、愛、性、再生など、人間の人生のさまざまなテーマに触れており、循環的な形で描かれています。青と紫の螺旋がたくさん描かれた聖母のドレスは、豊饒、継続的な変化、宇宙の進化を比喩的に示しています。

死と生

死と生

1915年 レオポルド美術館

寓意的な主題をアール ヌーボースタイルで表現しています。この作品では死に脅威を感じるのではなく、それに先行する期待に焦点を当てています。悲観的でネガティブな印象を持ちがちな死と、生という強烈な喜びの瞬間、あるいは奇跡的な美しさと若さを対比させて表現しています。

花嫁

花嫁

1918年 ベルヴェデーレ宮殿

クリムトが最晩年に制作していた未完成の作品で、女性の官能的な恍惚感を広大な視点で表現しています。タイトルの花嫁から連想する生き生きとした印象ではなく、どこか死を連想させる作品です。クリムトの制作スタイルが部分的に描写するスタイルである事が分かります。

私の自画像は存在しない。私の興味は自分ではなく、他の存在にある。

グスタフ・クリムト

クリムトの影響

グスタフ・クリムトは象徴主義の巨匠として、多くの画家に影響を与えました。
エゴン・シーレオスカー・ココシュカらは、クリムトの作品から性の表現に刺激を受けました。
オーギュスト・ロダンはクリムトの作品に共感し、自身の作品のテーマに取り入れました。
また、当時のオーストリア芸術界だけでなく、その後の芸術界に大きな影響を与えました。


グスタフ・クリムトはオーストリア・モダニズムの代表的な画家です。
多くの女性と関係を持ちましたが、生涯独身を通し、自分の作品についてはほとんど語らず、謎めいた人物としても知られています。
彼は金色で装飾された官能的な女性像や風景画で知られており、ウィーン分離派の創始者の一人として新しい芸術表現を追求しました。自分の芸術観を貫くために多くの困難に直面しましたが、それでもなお新しいスタイルやテーマに挑戦し続けました。
クリムトの作品は今でも世界中で高く評価されています。

$(function(){function bodyFixedOn() {$('body').css('overflow', 'hidden');$(".course_menu").addClass("open");}function bodyFixedOff() {$('body').css('overflow', '');}$(document).on('click','.b_close',function(){$(".dp").fadeOut(function(){$(this).remove()});$(".frieze").removeClass("left").removeClass("right");$(".room").attr("style","");bodyFixedOff();});var scale=1;$(document).on('wheel',".dp", function (e) {e.preventDefault();var delta = e.originalEvent.deltaY;eval(if1);eval(if2);});$(document).on('click','.rote p',function(){var T=$(this).attr("id");if(T=="t_l"){$(".frieze").addClass("left").removeClass("right");}else if(T=="t_r"){$(".frieze").addClass("right").removeClass("left");}else if(T=="t_m"){$(".frieze").removeClass("left").removeClass("right");}});var sX;var nX;var mX;var touched = false;let isClick = true;$(document).on('touchstart','.dp', function(e) {isClick = true;touched = true;sX = e.changedTouches[0].pageX;}).on('touchmove','.dp', function(e) {isClick = false;if (!touched) {return;}if(nX==null){nX=$(".frieze").position().left;}eX = Math.round(e.changedTouches[0].pageX - sX);mX= nX + eX ;$(".frieze").css("left",mX+"px");}).on('touchend','.dp', function(e) {sX = e.changedTouches[0].pageX;nX=mX;});$(document).on('mousedown','.dp', function(e) {e.preventDefault();isClick = true;touched = true;$(this).css('cursor', 'grabbing');sX = e.pageX;}).on('mousemove','.dp', function(e) {e.preventDefault();isClick = false;if (!touched) {return;}if(nX==null){nX=$(".frieze").position().left;}eX = Math.round(e.pageX - sX);mX= nX + eX ;$(".frieze").css("left",mX+"px");}).on('mouseup','.dp', function(e) {$(this).css('cursor', "grab");e.preventDefault();nX=mX;touched = false;}).on('mouseleave','.dp', function(e) {$(this).css('cursor', 'grab');e.preventDefault();touched = false;});$(document).on('click','.frieze div',function(){var Div=$(this).attr('class');var Viw=$(".frieze").attr('class').split(' ');var Src="";if(Viw[1]!=null){Src=Viw[1];}else{Src=Div;}if(Div=="top" || Div=="bottom"){}else if(isClick){var IMG='img/note/085/beethoven_frieze_'+Src+'.webp';$("body").append('
x
');$('.frieze_img').attr('src',IMG);$(".img_pre").fadeIn();}});$(document).on('click',".art_box img",function(){var Target=$(this).parents('figure').next('ins');if(Target.length){bodyFixedOn();$(".dp").remove();var Ins=Target.html();$("body").prepend('
'+Ins+'x
');$(".detail_picture").fadeIn();}});$(document).on('click',".detail_picture li",function(){var No=$(this).parents("div").attr("data");var Cl=$(this).attr('class');$("[data=" + No + "] img").fadeOut(function(){var Src="";if(Cl=="mono"){Src=$("[data=" + No + "]").parents("ins").prev("figure").find("img").attr("src");}else if(Cl=="ai_color"){Src="img/note/085/" + No + ".webp";}else{Src="img/note/085/"+ Cl +".webp";}$("[data=" + No + "] img").attr("src",Src).fadeIn();});});});

ログインできない場合 新規会員登録