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アルフォンス・ミュシャ

2023.09.23 ピックアップアーティスト

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芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

アルフォンス・ミュシャ

今回は、アール・ヌーヴォーを代表する画家アルフォンス・ミュシャをピックアップします。

アルフォンス・ミュシャは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したチェコ出身の画家で、アール・ヌーヴォーの代表的な画家として知られています。
パリでサラ・ベルナールのポスターを制作して一躍有名になり、その後も多くの商業用ポスターや装飾パネル、挿絵などを手がけました。彼の作品は、しなやかな曲線と美しい色彩が特徴で、異国趣味や古典古代を思わせる装飾様式のほか、日本など東洋の美術の要素もみられます。
また、自身のルーツであるチェコやスラヴ民族に対する想いを込めた大作『スラヴ叙事詩』を制作するなど、芸術家としてだけでなく愛国者としても尊敬されています。

ミュシャとその時代

ミュシャが活躍した時代は、19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパでした。この時代は、産業革命による経済発展や社会変動、帝国主義やナショナリズムの高まり、第一次世界大戦などの歴史的な出来事が起こりました。また、文化や芸術の面でも、印象派や象徴主義などの新しい潮流が生まれ、多様な表現が試みられました。

この時代のパリは、文化的な中心地であり、多くの芸術家や知識人が集まりました。サロンやカフェでは、芸術や思想の議論が盛んに行われ、印象派やポスト印象派などの新しい画風が登場し、写実主義から抽象的な表現へと移行しました。
また、自然科学や心理学の発展によって、人間の感性や無意識に注目する芸術家も現れました。これらの芸術家は、「アール・ヌーヴォー」と呼ばれる新しい芸術様式を生み出しました。アール・ヌーヴォーは、曲線や植物などの自然の形態を取り入れた装飾的なデザインで特徴づけられます。
1889年と1900年に万国博覧会が開催され、エッフェル塔やグランド・パレなどの建築物が建設されました。博覧会では、世界各国の文化や技術が紹介され、芸術家や知識人に多大な影響を与えました。
また、日本文化に対する関心も高まり、日本から輸入された浮世絵や陶磁器などの工芸品は、多くの芸術家に影響を与えました。これを「ジャポニスム」と呼びます。特に浮世絵は、その平面的で装飾的な様式がミュシャやゴーギャンなどのアール・ヌーヴォーの画家に受け入れられました。

ミュシャの祖国であるチェコは、当時オーストリア=ハンガリー帝国の一部であり、ドイツ語圏の影響下にありました。チェコ人は自らの言語や文化を守ろうとするナショナリズム運動を展開しました。 1870年代には、チェコ語やチェコ文化の復興を目指す「国民復興運動」が盛んになりました。この運動は、音楽家のスメタナやドヴォルザーク、詩人のマハらによって芸術面でも支えられました。1883年にはチェコ国民劇場が開館し、チェコ語で演劇やオペラが上演されました。1891年にはチェコ人初の大統領であるトマーシュ・マサリクが亡命政府を組織しました。1918年にはオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、チェコスロバキア共和国が成立しました。

ミュシャ生い立ち

アルフォンス・ミュシャ
アルフォンス・ミュシャ

アルフォンス・マリア・ミュシャは1860年7月24日、オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェ(現在のチェコ共和国)に生まれました。
父親は裁判所の書記で、母親は農家の娘で音楽好きでした。ミュシャは幼い頃から絵を描く事と音楽に触れることが好きでした。
ブルノ中学校に入り、教会の聖歌隊の一員となって、音楽家を志しましたが、15歳の時に声変わりによってアルトの声が出せなくなり、音楽の道をあきらめ中学校を中退しました。その後は地方裁判所で働きましたが、絵画への情熱は失われませんでした。

ウィーン時代

19歳のときにウィーンに移り住み、舞台装置工房で働き始めました。
そこでウィーン美術界の重鎮であったハンス・マカルトの作品に触れて感動しました。マカルトは華麗な色彩と装飾的な様式で、古典古代や東洋の情景を描いていました。
ミュシャはマカルトの影響を受けて、夜間のデッサン学校に通って技術を磨きました。
そんな時、1882年にはウィーン歌劇場が火事で焼失し、ミュシャは仕事を失ってしまいました。

ミュンヘン時代

ウィーンで2年間働いた後、ミュシャはミクロフという町でクーエン・ブラシ伯爵に出会います。
伯爵はミュシャの才能を認めて、パトロンとなりました。伯爵の援助でイタリアやドイツなどを旅行し、多くの美術作品を鑑賞しました。

1885年、ミュシャは伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学します。
ミュンヘンでは、アカデミックな画風や新古典主義や、印象派や象徴主義などの新しい芸術運動に触れることになりました。また、同じく伯爵の援助を受けていたチェコ人画家のカレル・リーゲルと親交を深め、自らの民族意識を高めました。

パリ時代

1887年、ミュンヘン美術院を卒業した後、28歳となったミュシャはパリへ移り、アカデミー・ジュリアンやアカデミー・コラロッシに通います。
ここで彼は印象派やポスト印象派などの新しい画風に触れるとともに、日本美術や東洋趣味にも興味を持ちました。パリでは初期苦闘時代であり、雑誌の挿絵や広告などで生計を立てていました。

パリで多くの芸術に触れることで、徐々に自身のスタイルを確立させつつあったミュシャに、1894年の末、人生を変える運命的な出来事が起こります。舞台女優サラ・ベルナールとの出会いでした。
サラ・ベルナールは、年末に上演する芝居のポスターを急遽発注することにしましたが、主だった画家が休暇でパリにおらず、印刷所で働いていたミュシャに依頼したのです。
ミュシャが制作したポスターは、輪郭線のみで写実的に表現された人物と細部にわたる繊細な装飾からなるもので、当時のパリにおいて画期的な作品として大好評を博し、パリ中の人々がポスターを切り取って持ち帰るほどで、文字通り一夜にして彼のアール・ヌーヴォーの旗手としての地位を不動のものとしました。

ジスモンダ』の成功により、ミュシャはサラ・ベルナールと専属契約を結びました。サラ・ベルナールは当時フランス演劇界の女王として君臨していた大女優であり、彼女のポスターはパリ中に貼られていました。ミュシャは彼女のポスターだけでなく、舞台装置や衣装も手がけるようになりました。また、彼女と親しくなり、彼女の演技や人間性にも影響を受けました。後にミュシャはサラ・ベルナールと共にアメリカに渡り、彼女の公演をサポートしました。

ジスモンダ

ジスモンダ

1894年

サラ・ベルナール主演の劇場ポスターです。この作品はミュシャの出世作となりました。サラ・ベルナールはビザンチン風の衣装を身にまとい、優雅に立っています。背景にはパルムの葉や花が描かれています。色彩は淡く、線は細く、装飾的な効果が高いです。この作品は、ミュシャの画風の特徴である、女性の美しさや装飾的な曲線、オリエンタルな雰囲気を表現しています。

アール・ヌーヴォーの旗手

一躍「時の人」となったミュシャは、サラ・ベルナール以外にも、ポスターや装飾パネルなどの依頼を多く受けるようになりました。ミュシャの作品は女性と様式化された装飾の組み合わせが特徴的であり、「ミュシャ様式」と呼ばれるようになりました。

1896年から1900年までは最も多作な時期でした。この間には、装飾パネルも多く制作しました。2点ないし4点のセットの連作が多く、いずれも女性の姿を用いて様々な寓意を表現していました。
代表的な作品には『黄道十二宮』『四季』などがあります。これらは美術商や出版社から発売され、広く一般にも受け入れられました。
また、1900年にはパリ万国博覧会に出展し、ボスニア・ヘルツェゴビナ館の装飾を担当しました。この作品は、オーストリア帝国の植民地政策に批判的な内容でしたが、高く評価されました。

黄道十二宮

黄道十二宮

1896年

黄道十二宮の星座を表す女性の姿を描いた装飾パネルのシリーズです。それぞれの女性は星座にちなんだ衣装やアクセサリーを身につけています。背景には星や月が描かれています。色彩は淡く、線は細く、装飾的な効果が高いです。

四季

四季

1896年

四季をテーマにした装飾パネルのシリーズの1つです。 「ハイ・アート」のこの古典的なテーマを描く際に、ミュシャは一連の4つのパネルで季節をニンフのような女性として擬人化しました。それぞれの作品は、無邪気な春、蒸し暑い夏、実り豊かな秋、凍てつく冬など、季節の気分を対応する季節の風景に対して捉えており、全体として調和のとれた自然のサイクルを表しています。

サロン・デ・サン

サロン・デ・サン

1897年

サロンは、19世紀末にフランスのパリで印象派やアールヌーボーなどの画家や彫刻家らが出展した美術展です。毎回展覧会のポスターが制作され、ミュシャをはじめジョルジュ・ド・フールやロートレックなどがポスターを制作しています。ミュシャは1896年と1897年にサロンのポスターを担当しました。

アメリカでの活動

パリ万博でのボスニア・ヘルツェゴビナ館の内装でスラヴ民族の歴史を調査したことがきっかけになり、チェコの民族主義やスラヴ民族の歴史に関心を持ち始めました。ミュシャはこれをさらに発展させることを考え、スラヴ民族の歴史を20点の大型画に描くという壮大な計画を立てました。これが『スラヴ叙事詩』と呼ばれる作品です。

1904年3月、ミュシャはアメリカへ渡ります。その目的は“壮大な計画”への資金集めでした。
すでにアメリカでも有名になっていたミュシャは、ニューヨークのセントラル パーク近くのスタジオを借り、富裕層のために肖像画を描いたり、ニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴなどで講演を行うなど活動しました。

1906年6月、ボヘミア出身のマルシュカ・ヒティロヴァーとプラハで結婚した後、妻と共にアメリカに渡り、フィラデルフィア、シカゴ、ボストンで展覧会を開いています。長女ヤロスラヴァが誕生した1909年に、シカゴの大富豪チャールズ・クレインからの資金援助の合意を得ます。

1910年、チェコへ戻ったミュシャは、西ボヘミアのズビロフ城の一部をアトリエ兼住居として借り、ついに『スラヴ叙事詩』の制作を開始します。

スラヴィア

スラヴィア

1908年

超大作「スラヴ叙事詩」への資金援助を行ったシカゴの大富豪チャールズ・クレインの依頼を受けて彼の娘ジョセフィンへの結婚祝いに描かれた作品です。ミュシャはジョセフィンをスラヴ民族の連帯を体現するスラヴの女神スラヴィアに見立て、祖国愛、平和主義と専守防衛、隷属状態からの解放などを意味するモチーフを挿入しつつ全体を美しく装飾的に描いています。

ジャンヌ・ダルクに扮するモード・アダムス

ジャンヌ・ダルクに扮するモード・アダムス

1909年 メトロポリタン美術館

『オルレアンの乙女(ジャンヌ・ダルク)』の公演に際してミュシャが女優モード・アダムスのために描いた肖像画は公演会場のハーヴァード大学でポスターとして掲示されるために、油彩で制作した1点だけのポスターになりました。ジャンヌ・ダルクに描かれているフランスのユリを囲む殉教のシンボル、キリストの「イバラの冠」は没後500年を迎えるヤン・フスの復権を願う希望の「太陽」でもあります。

ヒヤシンス姫

ヒヤシンス姫

1911年 リトグラフ

バレエ・パントマイムの宣伝用のポスターとして制作されたリトグラフで、チェコの伝説に登場する美しい姫を描いたものです。背景には三日月形をしたフレームには鍛冶屋の道具、錬金術師の実験器具、貧乏騎士と城主の冠や魔法使いの怪物など、様々な小道具が隠れていて物語を暗示しています。美しい青い眼に映りこんだ光まで精密に描かれていてとても印象的な作品です。

スラブ叙事詩

スラヴ叙事詩』は18年の歳月をかけて手掛けた壁画サイズの一連の作品で、チェコおよびスラヴ民族の伝承・スラヴ神話および歴史を描いた全20作品から成ります。サイズは小さいものでもおよそ4x5メートル、大きいものでは6x8メートルに達し、作品は溶剤に卵を使ったテンペラを基本とし、一部には油彩も使われています。

ミュシャは、チェコ人だけでなく、ロシア人やポーランド人など他のスラヴ民族の歴史や伝説にも触れるために、各地を旅行しました。1918年にはチェコスロバキア共和国が成立し、ミュシャはその祝賀式典に参加しました。
1928年には、全20点が完成しました。ミュシャは、特設の展示場を用意することを条件にこの作品をチェコスロバキア共和国に寄贈し、現在はプラハ国立美術館のヴェレトゥルジュニー宮殿に展示されています。

スラブ叙事詩

スラブ叙事詩

1910 - 1928年 プラハ国立美術館

スラブ民族の歴史や神話を題材にした絵画のシリーズです。全20点からなるこの作品郡は、色彩は豊かで、線は力強く、叙事詩的な表現で、一枚あたり6×8メートルほどあり、ミュシャは一連の作品の制作に約18年の歳月を費やしました。1930年に行われた展示会のポスターは制作開始の前年に誕生した娘のヤロスラヴァをモデルとしています。

晩年

スラヴ叙事詩』の完成後も、ミュシャはチェコの芸術や文化に貢献し続けました。
チェコスロバキアは1918年にオーストリア=ハンガリー帝国から独立した国であり、ミュシャはその建国に貢献しました。彼は、チェコ人の伝統的な装飾様式や紋章を研究し、チェコスロバキア共和国の紙幣や切手などのデザインを手がけました。また、プラハ城内にあるマイエルスキー礼拝堂の壁画や聖ヴィート大聖堂などの建物にステンドグラスを制作しました。
聖ヴィート大聖堂のステンドグラス』は、「聖書から抜粋した物語」と「チェコ人の歴史的な出来事」を組み合わせたもので、ミュシャの最後の大作となりました。

第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツによってチェコスロバキアは占領されました。
1939年、ミュシャはフリーメーソンの会員であることを理由にゲシュタポに逮捕され尋問を受けました。体調不良となり釈放されますが、同年7月14日にプラハで肺炎のため亡くなりました。享年78歳でした。
当時プラハでは公共の場での集会は禁止されていましたが、彼の埋葬には大勢の観衆が参列しました。

聖ヴィート大聖堂のステンドグラス

聖ヴィート大聖堂のステンドグラス

1931年 プラハ聖ヴィート大聖堂

10世紀ボヘミアの王でチェコの聖人ヴァツラフと、その祖母 聖リュドミラを中心に、左右には9世紀のスラヴ世界にキリスト教をスラヴの言葉で布教した聖ツィリルと聖メトディウス兄弟を描いています。最上部のキリスト像の下にはスラヴの女神であるスラヴィアが配置され、スラヴ色の豊かなステンドグラスです。

ミュシャの影響

ミュシャは女性の美しさや自然の優雅さを強調し、様式化された装飾の組み合わた「ミュシャ様式」を確立し、アール・ヌーヴォー運動に大きな影響を与えました。アール・ヌーヴォーという言葉自体も、ミュシャの友人である美術商サミュエル・ビングが開いた画廊「アール・ヌーヴォー・ビング」から来ています。
これは、産業化や都市化による機械的な生活に対する反動として、人々の心を捉えました。ミュシャの作品は、ポスターやパネルだけでなく、建築や家具、宝飾品などにも応用されました。
「ミュシャ様式」はグスタフ・クリムトルネ・ラリックなど、多くの芸術家が影響を受けていて、日本をはじめとする世界中の画家やイラストレーターにも影響を与えました。
また、チェコスロバキア共和国の紙幣や切手などのデザインを手がけ、チェコやスラヴ民族の芸術や文化にも多大な影響を与えました。


ミュシャは、アール・ヌーヴォーを代表する画家であり、女性と装飾の組み合わせが特徴的な作品を多数制作しました。彼は、サラ・ベルナールとの出会いで名声を得た後も、神話や歴史を題材にした複数の大作を完成させました。彼は、自分の民族に捧げることを誓った芸術家であり、その作品は今でも多くの人々に愛されています。

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