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エゴン・シーレ

2023.08.30 ピックアップアーティスト

芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

エゴン・シーレ

今回は、若くして才能を開花させ、若くして人生を終えたオーストリアの画家エゴン・シーレをピックアップします。

エゴン・シーレは、ウィーン分離派や象徴主義、ドイツ表現主義の影響を受けながら、独自の画風を確立しました。人間の内面や性を生々しく描き出し、裸体や性を率直に描き、死や苦悩などのテーマを描き出しました。28歳という若さでこの世を去りましたが、その後も多くの芸術家に影響を与え続けています。この記事では、エゴン・シーレの生涯と作品について紹介します。

シーレとその時代

シーレが活躍した時代は、オーストリア=ハンガリー帝国が衰退し、第一次世界大戦に巻き込まれた激動の時代でした。その一方で、ウィーンでは芸術や文化が花開き、世紀末ウィーンと呼ばれる華やかな時代でもありました。
この時代には、グスタフ・クリムトオスカー・ココシュカなどの画家や、ジークムント・フロイトルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインなどの思想家が活躍しました。彼らは伝統的な価値観や美意識にとらわれず、新しい芸術や思想を追求しました。シーレもこの時代の空気に触発され、自らの感性を表現する画家として成長していきました。

シーレの生い立ち

エゴン・シーレ
エゴン・シーレ

エゴン・シーレは1890年6月12日、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーン近郊のトゥルン・アン・デア・ドナウで、帝国鉄道の駅長の父と、チェコ系オーストリア人であった母との間に3人兄弟の末っ子として生まれました。
幼いシーレは絵画に夢中で、父から古い鉄道車両や機械類の描き方を教わり、初等教育を受けたクロスターノイブルクで美術担当の教師から才能を認められました。
しかし、シーレが15歳の時に父親が重い病気を患い、苦しみの中で亡くなります。父の死を目の当たりにしたシーレは深く傷つきましたが、叔父レオポルドに引き取られ、支援を受けながら芸術の道を歩み始めました。

クリムトとウィーン分離派

ウィーン美術アカデミーに16歳という当時の最年少の若さで入学したシーレでしたが、古典的な芸術を重視するアカデミーに馴染めず、教授や同級生との衝突が絶えず、しばしば喧嘩や暴力に発展することがありました。
アカデミーに失望したシーレは、ウィーンの画壇の巨匠グスタフ・クリムトへの弟子入りを志願します。クリムトは当時ウィーン分離派の中心的な存在であり、金箔や装飾的な模様を用いた華麗な作風で知られていました。

シーレ僕には才能がありますか?

クリムト才能がある?あるどころか、ありすぎる

シーレの才能を高く評価したクリムトは、ウィーン工房や「ウィーン分離派」という芸術団体に彼を紹介しました。
シーレはクリムトから多くの影響を受けましたが、同時に自分自身の個性を発揮することを求めました。クリムトは寛容で、モデルを紹介したり、個展のための資金援助をしたり、積極的に若き才能を支援しました。
クリムトはシーレにとって父親であり、友人であり、パトロンのような存在で、芸術家としてまだ模索中のシーレの後援者として彼の芸術に大きな影響を与えました。
シーレはフィンセント・ファン・ゴッホからも強い影響を受けました。ゴッホの作品を称賛し、「ひまわり」を模写しています。また、ゴッホの晩年が自分の出生年と同じ1890年であったことに運命を感じていました。

1909年にウィーン美術アカデミーを退学し、同じ志を持つ仲間たちと共に「ウィーン分離派」のメンバーとして多くの展覧会に参加し、自分の作風や主題を確立していきました。この頃からシーレは表現主義的な傾向を強め、裸体や性を率直に描くことも多くなりました。
彼は人体に関する研究を深め、性や死といった倫理的な判断や社会的な規範からは敬遠されがちなテーマを描きました。極端にねじれた身体造形や表現主義的な線が特徴的で、自らのヌードや女性のヌードを多く描き、その過激な表現は社会的なスキャンダルを引き起こしました。
シーレは自分の作品をとても大切にしていて「私の子供たち」と呼び、あえて作品の値段を高くして絵を売ることを避けていました。

ダナエ

ダナエ

1909年 個人蔵

シーレが19歳のときに描いた作品でクリムトの「ダナエ」のオマージュです。18歳のシーレは才能を見出してくれたクリムトを尊敬し崇拝していきます。黄金のシャワーと思われるものから隠れている赤褐色の髪の裸の少女として描かれ、草や森に囲まれ、バラのつぼみに隠れる夢見心地な少女のように見えます。身体の描写は平面的で、クリムトやシーレが日本の浮世絵の影響を強く受けていたことが伺えます。

ゲルティ・シーレの肖像

ゲルティ・シーレの肖像

1909年 ニューヨーク近代美術館

シーレの妹であるゲルティは、家族というだけでなく、近親相姦の関係であったとも言われています。この時期のシーレはゲルティをモデルにして多くの作品を制作しています。クリムトの装飾的な画風に影響を受けつつ、直線を多く取り入れ、植物のような人物と背景のコントラストを強く表現することで版画のような強いインパクトを感じさせます。

ヴァリーとの同棲

1911年、シーレは17歳の少女ヴァリー・ノイツィルと同棲をはじめます。
ヴァリーはシーレの作品の中で多く描かれたモデルで、クリムトから紹介されたという説と、シーレ自らがモデルとしてスカウトしたという説があります。
彼女がモデルとして裸体を晒すことに対し、周囲からは非難する声もありました。

シーレとヴァリーはウィーンを離れチェコの田舎町に移り住み積極的に制作をしました。 自分や恋人、モデルや娼婦などの裸体を率直に描き、性器や毛髪などの細部も省略しませんでした。彼は性を美しくも醜くもない、ただ人間の一部であると考えて、性やエロティシズムを隠すことなく描きました。しかし、毎日のように娼婦が出入りしたり、田舎町でヌードモデルをスカウトしたりする様子は地元の人々から快く思われませんでした。
やがてウィーン近郊にアトリエを作って移住しますが、ここでの生活も、家出少女をモデルとして泊まらせたりするなどして、周囲から批判を受けました。

そんな中、シーレは未成年者へのわいせつ罪で逮捕され、24日間拘置されます。この時、シーレは無罪を主張しますが、裁判所で自身の作品画を焼かれるという屈辱を受けています。この事件はシーレに大きなショックと影響を与えます。

彼は自分の立場や芸術観を見つめ直し、より深い表現を求めるようになりました。彼は自画像や風景画も多く描くようになり、色彩や構図にも工夫を凝らしました。彼は自画像を通じて、自分の内面や心理状態を表現しようとしていました。彼は自画像でさまざまな表情やポーズを試み、時には衣服や小道具を使って自分のイメージを変化させました。

ほおずきの実のある自画像

ほおずきの実のある自画像

1912年 レオポルト美術館

シーレが逮捕された後に描いた自画像です。絵の中で画家は頭をやや傾げ、下目使いでこちらを向いています。左側の葉をつけた小枝とほおづきは自身と呼応していて、人物に植物的な生命観を生み出しています。ほおずきの実は死や血を暗示しています。この作品は、シーレが自分の芸術や社会に対する姿勢を表現したものと言われています。

ヴァリーの肖像

ヴァリーの肖像

1912年 レオポルト美術館

ヴァリーはシーレの恋人かつモデルで、出会った当時、シーレは21歳、ヴァリーは17歳の少女でした。ヴァリーはシーレの理解者であり献身的に彼を支えました。シーレは彼女をモデルにして多くの絵画を制作しています。この肖像はシーレの自画像と対をなすような構図で描かれていて、ヴァリーがシーレにとっていかに大切な存在であったかを、うかがい知ることが出来ます。

結婚と大戦

1914年、ウィーンへ戻ったシーレは、近所に住んでいたハルムス姉妹と知り合います。社会的にも経済的にも恵まれた環境で育ったこの姉妹に惹かれ、姉妹の2人と親しい関係を持つようになりました。
やがてシーレは妹のエーディトとの結婚を考えるようになり、ヴァリーとの決別を選択します。『死と乙女』は、この別れを描いたものとされています。
シーレと別れたヴァリーは、その後彼の前に現れる事はなく、看護婦として赤十字に加わり従軍し、1917年に猩紅熱(しょうこうねつ)のため23歳で亡くなっています。

1915年6月、シーレはハルムス家の反対を押し切りエーディトと結婚しました。妻となったエーディトも『画家の妻の肖像』など、シーレの作品の多くでモデルを務めています。
結婚後まもなくして第一次世界大戦が激化します。シーレは徴兵されますが、戦闘に参加することはなく、後方で絵を描き続けました。
戦争の惨状や死者を目撃した経験は、彼の作品に深い影響を与えました。また、シーレは戦争中に逮捕されたり負傷したりするという苦難も経験しました。

死と乙女

死と乙女

1915年 ベルヴェデーレ宮殿

シーレがヴァリー・ノイツィルと別れた後に描いた作品です。この作品は、ヴァリーを描いた最後の作品です。ヴァリーが横たわり、死神に抱かれています。死神はシーレ自身を象徴しており、罪の意識からか男には生気がありません。この作品は、シューベルトの同名の歌曲にインスピレーションを得たものと言われています。

画家の妻の肖像

画家の妻の肖像

1915年 ベルヴェデーレ宮殿

シーレが結婚した妻エーディト・シーレを描いた肖像画です。エーディトは青いドレスを着て椅子に座っています。彼女の顔は穏やかで美しく、シーレへの愛情が感じられます。制作当初、エーディトのスカートは別の柄で描かれていましたが、後日加筆されて変更されたと言われています。

抱擁

抱擁

1917年 レオポルト美術館

シーレが結婚した後に描いた作品です。恋人や夫婦の抱擁を描いた作品は多くありますが、この作品では二人の姿が一体化しています。背景は金色で装飾されており、愛や幸福を象徴しています。

晩年

1917年にウィーンに戻ったシーレは、悲しい出来事に見舞われます。恩人であったクリムトが世を去ってしまったのでした。このため、翌1918年の「ウィーン分離派展」ではメインとして多くの作品を出展することになりました。
当時、まだそれほど有名ではなかったシーレでしたが、この「ウィーン分離派展」で高い評価を得ることになります。これによりシーレは画家としての地位を確立し、画家としての輝かしい未来が開き始めました。この時期のシーレは、妻エーディトや友人たちを描いた肖像画や、自然の美しさを捉えた風景画など、落ち着いた表現を見せています。

しかし、1918年10月、妊娠中の妻エーディトが当時流行していたスペイン風邪で亡くなり、その3日後に妻の看護をしていたシーレも同じ病気になり、突然の死を迎えます。彼は28歳でした。

死の直前まで描いていた作品は『家族』というタイトルで、自身の姿と妊娠中のエーディト、そしてまだ見ぬ我が子が描かれています。この作品は未完成のまま残されましたが、シーレが家族というテーマに向き合った最後の作品として、彼の成熟した表現力を示しています。この作品はシーレの死後、ウィーン分離派の展覧会に出品されましたが、その展覧会も第一次世界大戦の終結とともにウィーン分離派の解散を意味しました。シーレは自分の時代の終わりを予感していたのかもしれません

家族

家族

1918年 ベルヴェデーレ宮殿

シーレがスペイン風邪で亡くなる直前に描いた最後の油絵であり、未完の作品です。シーレ自身と妻とまだ生まれてくる子供を描いています。彼がやがて自分に訪れる悲劇を予見していたのか不明ですが、作品の中の彼は、家族を持つことへの希望と同時に、来るべき悲劇を静観しているような表情が伺えます。

死にゆくエーディト・シーレ

死にゆくエーディト・シーレ

1918年 レオポルト美術館

短い生涯で約3000点の作品を残したシーレによる最後の素描です。この作品は、弱り行く妻を看取りながら描かれた素描で、胸が張り裂けるような悲しみとともに、夫婦の最後の時間、穏やかな瞬間を捉えています。

シーレの影響

シーレは生前から高い評価を得ていましたが、死後もその評価は高まりました。
彼の作品は表現主義の代表的なものとして、世界中の美術館やコレクターに収蔵され、多くの芸術家に影響を与えました。
ドイツ表現主義の画家たちエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーや、エミール・ノルデらは、シーレの色彩や線の使い方、人体の歪曲などを参考にしました。
また、シュルレアリスムの画家たちサルバドール・ダリや、パブロ・ピカソらは、シーレの夢幻的なイメージや性的な暗示、自己分析などを参考にしたと言われています。
さらに、抽象表現主義の画家たちジャクソン・ポロックや、マーク・ロスコらは、シーレの感情や感覚を直接的に表現する姿勢や筆致を参考にしました。
シーレは20世紀美術の先駆者として、多くの芸術家に刺激と影響を与え続けています。


エゴン・シーレは、若くして才能を認められ、画家として成功し始めた矢先にその人生を終えました。シーレは倫理的な判断や社会的な規範を超え、常に自由奔放で欲望のままに行動しました。彼は多くの女性と関係をもち、その経験をそのまま作品として人間の生々しい生と荒々しい野生を表現し続けました。
彼の作品は当時の社会に衝撃を与え、賞賛と批判を巻き起こしました。28歳という若さでこの世を去りましたが、その後も多くの芸術家に影響を与え続けています。
シーレは20世紀美術の先駆者として、「永遠のモダン」と呼ばれる現代性を持っています。彼は今もなお私たちに感動と驚きを与えてくれます。

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