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メディチ家礼拝堂

2023.06.15 ミケランジェロ

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メディチ家礼拝堂

メディチ家礼拝堂とは、サン・ロレンツォ聖堂に隣接する2つの建物、「新聖具室」と「君主の礼拝堂」の総称で、メディチ家の霊廟として建てられました。メディチ家といえば、ルネサンス期のフィレンツェで銀行家や政治家として君臨し、芸術家たちを庇護した名門です。
メディチ家礼拝堂には、そのメディチ家と深い繋がりのあった巨匠ミケランジェロの作品が多数展示されています。この記事では、メディチ家礼拝堂の見どころや歴史についてご紹介します。

メディチ家礼拝堂の中でも最も有名なのが、「新聖具室」と呼ばれる部屋です。この部屋は、建築家で彫刻家でもあったミケランジェロが設計し、彫刻も手がけた最高傑作の一つとされています。新聖具室には、メディチ家の2人の当主の墓廟があります。
一つは、ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチ(1492-1519)の墓廟で、もう一つはヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ(1479-1516)の墓廟です。 この2人は、フィレンツェを栄えさせたロレンツォ・イル・マニフィコ(1449-1492)の息子と孫にあたります。

ロレンツォ・イル・マニフィコは、フィレンツェ共和国の事実上の支配者であり、人文主義者や芸術家としても知られています。彼はミケランジェロを見出し、自分の邸宅に住まわせて庇護しました。そのため、ミケランジェロは彼に深い敬意と感謝を抱いていました。
しかし、彼が死去した後、フィレンツェは内紛や外敵に苦しみました。彼の三男であるウルビーノ公ロレンツォは若くして亡くなりました。彼の兄であるピエロ・デ・メディチ(1472-1503)はフランス軍に協力してフィレンツェから追放されました。
ピエロの息子であるウルビーノ公ロレンツォの甥であるジュリアーノは、フィレンツェの内紛で暗殺されました。このように、メディチ家は悲劇に見舞われました。

メディチ家礼拝堂

ミケランジェロは、この2人の墓廟を制作するために、1520年から1534年までの間に新聖具室の設計と彫刻を行いました。 しかし、彼はフィレンツェの政治状況に耐えかねて、1534年にフィレンツェを去り、ローマで新しい仕事を始めました。
そのため、彼が手がけた墓廟は未完成のまま残されました。その後、他の芸術家や建築家が完成させましたが、ミケランジェロの意図したものとは異なる部分もあります。

ロレンツォの霊廟

ロレンツォ・デ・メディチ

ロレンツォの墓廟は、新聖具室の入り口の左側にあります。 ロレンツォの像は兜をかぶった傭兵隊長の装束をまとい、少しうつむいた姿をしています。この像は「思索する者」とも呼ばれており、ロレンツォの内面的な苦悩や孤独を表現しています。彼は自分の運命やフィレンツェの未来について深く考えているようです。

彼の下には「黄昏」と「曙」の寓意像があります。「黄昏」は筋骨隆々の壮年像で、強い意志の力を感じさせる表情をしています。「曙」は女性像で、憂いを含んだ暗い表情をしており、男性像のような筋肉のついた肉体を持っています。
これらの寓意像は、時間や死や生命などの普遍的なテーマを象徴しています。
また、メディチ家が経験した栄光と没落という歴史的な事実も反映しています。

ジュリアーノの霊廟

ジュリアーノ・デ・メディチ

ジュリアーノの墓廟は、新聖具室の入り口の向かい側にあります。
ジュリアーノの像はマントをまとい、剣を手にして左方向を見つめています。その姿勢は勇敢さと力強さを感じさせます。この像は「勇敢な者」とも呼ばれており、ジュリアーノの活動的な性格や行動力を表現しています。
彼は自分の役割や責任について自信を持っているようです。

彼の足元には「夜」と「昼」の像があります。「夜」は女性像で、頭に手を置き、膝を曲げて物思いにふける表情をしています。彼女は腹部のたるみや乳房を通じて男性的な肉体として表現されています。「昼」は男性像で、強さを備えており、鋭い目つきで上方を見つめています。これらの寓意像も、「黄昏」と「曙」と同様に時間や死や生命などの普遍的なテーマを象徴しています。

その他の像

聖母子像

新聖具室には他にも3体の像があります。中心にある聖母子像はミケランジェロによって制作されましたが、未完成です。
この像の下にはロレンツォ・イル・マニフィコとジュリアーノ・デ・メディチの棺が納められています。

彼らはメディチ家の最盛期を象徴する人物であり、ミケランジェロは彼らに敬意を表して聖母子像を制作しました。聖母子像の両横にはメディチ家の守護聖人である聖コスマスと聖ダミアンの像があります。
これらはモントルソリとモンテルーポによる作品で、ミケランジェロの指示に従って制作されました。

メディチ家とミケランジェロの関係

メディチ家礼拝堂は、メディチ家とミケランジェロの関係を物語る場所でもあります。
メディチ家はルネサンス期のフィレンツェで銀行家や政治家として君臨し、芸術家たちを庇護しました。ミケランジェロは15歳のときにロレンツォ・イル・マニフィコに見出され、彼の邸宅に住まわせてもらいました。そこで彼は古典文化や人文主義に触れ、多くの芸術家や知識人と交流しました。ロレンツォは彼に自由な創作環境を与え、彼の才能を伸ばしました。

しかし、ロレンツォが死去した後、フィレンツェは内紛や外敵に苦しみました。 メディチ家は一時的にフィレンツェから追放され、共和制が復活しました。その間、ミケランジェロはダヴィデ像などの傑作を制作しました。ダヴィデ像はフィレンツェの自由と独立を象徴する作品です。

1530年にメディチ家がフィレンツェに復帰し、トスカーナ大公国を建国しました。
その際、ミケランジェロは共和制派としてメディチ家に反抗しましたが、後にメディチ家から恩赦を受けて礼拝堂の建設を再開しました。

しかし、彼はメディチ家の支配に不満を持ち続け、1534年にフィレンツェを去りました。そのため、彼が手がけた墓廟は未完成のまま残されました。彼はその後もローマで活躍し、システィーナ礼拝堂の天井画や最後の審判などの傑作を制作しました。

メディチ家礼拝堂は、メディチ家とミケランジェロの複雑な関係を反映した場所です。 メディチ家はルネサンス芸術のパトロンであり、ミケランジェロはその恩恵を受けた芸術家です。
しかし、メディチ家はフィレンツェの自由を奪い、ミケランジェロはその反対者でした。 メディチ家礼拝堂には、その矛盾や葛藤が彫刻に表現されています。ミケランジェロはメディチ家の当主たちを美化し、統治者にふさわしい気品と知性を表現しました。しかし、彼は同時に彼らの内面的な苦悩や孤独も表現しました。
また、彼は時間や死や生命などの普遍的なテーマを寓意像に込めました。これらの作品は、ミケランジェロの人間観や芸術観を示すものです。

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