ポール・ゴーギャン:印象派からエキゾチズムへ
2023.06.24 印象派の芸術家たち
ポール・ゴーギャン(1848年 - 1903年)は、フランスのポスト印象派の代表的な画家であり、色彩の大胆な実験とプリミティヴィスムへの傾倒で知られています。彼はパリで株式仲買人として成功した後、画家としての道を選び、ブルターニュやマルティニーク、タヒチなどの地で独自の芸術を追求しました。彼の作品は20世紀の近代美術と現代美術に大きな影響を与えました。
この記事では、ゴーギャンの生涯と作品を通して、印象派からどのようにエキゾチックなテーマへと移行したか、そして彼が描いた南太平洋の風景について解説します。
生い立ち

ゴーギャンは1848年6月7日にパリに生まれました。父クローヴィスは共和主義者のジャーナリストでした。母アリーヌ・マリア・シャザルの母(祖母)は、初期社会主義の主唱者でペルー人の父を持つフローラ・トリスタンでした。
1851年、ナポレオン3世のクーデターで父が職を失い、一家はパリを離れてペルーに向かいました。しかし父は航海中に急死しました。残されたポールとその母と姉はリマでポールの叔父を頼って4年間を過ごしました。アリーヌはペルーにてインカ帝国の陶芸品を好んで収集していました。
1855年、一家はフランスに戻りオルレアンで生活を始めました。ここはゴーギャン家が昔から住んでいた土地であり、スペイン語で育っていたゴーギャンはここでフランス語を身に付けました。
就職・結婚
ポールは地元の学校に通った後、海軍予備校に入学しようとするが試験に失敗し、1865年に商船の水先人見習いとなり世界中の海を巡りました。1867年に母が亡くなりましたが、ポールは数か月後に姉からの知らせをインドで受け取るまで知りませんでした。
その後、1868年に兵役でフランス海軍に入隊し、1870年まで2年間勤めました。1871年、23歳の時パリに戻ると、母の富裕な交際相手ギュスターヴ・アローザの口利きにより、パリ証券取引所での職を得、株式仲買人として働くようになりました。その後11年間にわたり実業家として成功し、1879年には株式仲買人として3万フランの年収を得るとともに、絵画取引でも同程度の収入を得ていました。
1873年、ゴーギャンはデンマーク人女性メット=ソフィー・ガッド(1850年 - 1920年)と結婚しました。2人の間には5人の子供を授かりました。
絵の修業
株式仲買人としての仕事を始めた1873年頃から、ゴーギャンは余暇に絵を描くようになりました。彼が住むパリ9区には印象派の画家たちが集まるカフェも多く、ゴーギャンは画廊を訪れたり新興の画家たちの作品を購入したりしていました。カミーユ・ピサロと知り合い、日曜日にはピサロの家を訪れて庭で一緒に絵を描いたりしていました。ピサロは彼を他の様々な画家たちにも紹介しました。
1876年、ゴーギャンの作品の一つがサロンに入選しました。1877年、ゴーギャンはパリ15区ヴォージラールに引っ越し、この時初めて家にアトリエを持ちました。元株式仲買人で画家を目指していた親友エミール・シェフネッケルも近くに住んでいました。ゴーギャンは1879年の第4回印象派展に息子エミールの彫像を出品、1881年と1882年の印象派展には絵を出展したが、いずれの作品も不評でした。
1882年、パリの株式市場が大暴落し絵画市場も収縮しました。ゴーギャンから絵を買い入れていた画商ポール・デュラン=リュエルも恐慌の影響を受け絵の買付けを停止しました。ゴーギャンの収入は急減し、彼はその後の2年間徐々に絵画を本業とすることを考えるようになりました。ピサロや時にはポール・セザンヌと一緒に絵を描いて過ごすこともありました。1883年10月にはピサロへ「画業で暮らしていきたい」という決意を伝え、助けを求める手紙を送っています。
1884年1月、ゴーギャンは家族とともに生活費の安いルーアンに移り、生活の立て直しを図りましたが、うまく行かず、その年のうちに妻メットはデンマークのコペンハーゲンに戻ってしまいました。ゴーギャンも11月作品を手にコペンハーゲンに向かいました。ゴーギャンはコペンハーゲンで防水布の外交販売を始めましたが言葉の壁にも阻まれ失敗しました。そのため妻メットが外交官候補生へのフランス語の授業を持って家計を支える状態でした。ゴーギャンはメットの求めを受けて、翌1885年に家族を残してパリへ移住します。
パリからポン=タヴァンへ
ゴーギャンは1885年6月6歳の息子クローヴィスを連れてパリに戻りました。その他の子はコペンハーゲンのメットの元に残り、メットの稼ぎと家族・知人の助けで生活することとなりました。ゴーギャンは画家として生計を立てようと思いましたが、現実は厳しく困窮し、雑多な雇われ仕事を余儀なくされていました。クローヴィスは病気になり、ゴーギャンの姉マリーの支援で寄宿学校に行くことになりました。
パリでの最初の1年で制作した作品は非常に少なく、1886年5月の第8回(最終回)印象派展に出展した作品のうち、ほとんどがルーアンやコペンハーゲン時代のものであり、『水浴の女たち』のみが新しく制作したものでした。それでもフェリックス・ブラックモンはゴーギャンの作品を1点購入しました。この印象派展で前衛画家の旗手として台頭したのは新印象派と呼ばれるジョルジュ・スーラでしたが、ゴーギャンはスーラの点描主義を軽蔑していました。
1886年の夏、ゴーギャンはブルターニュ地方のポン=タヴァンに向かいます。ここはパリから離れ、自然に恵まれ、生活費も安く、画家や詩人が集まる場所でした。ゴーギャンはここで自分らしい芸術表現を模索し始めました。彼は印象派的な光や色彩ではなく、形や線、構成や記号的な意味合いに重点を置くようになり、色彩も自然よりも強調されたものを使うようになりました。
1887年4月、ゴーギャンは友人シャルル・ラヴァルと共にパナマ運河建設現場で働くことを目指して船出しましたが、現地で熱病にかかり失敗しました。その後、マルティニーク島に渡り、約4か月間滞在しました。ここでゴーギャンは熱帯の自然と人々に魅了され、多くの作品を制作しました。彼はこの時期の経験が自身の芸術に大きな影響を与えたと述べています。
1888年1月、ゴーギャンは再びポン=タヴァンに戻りました。ここで彼はエミール・ベルナールやポール・セリュジエら若い画家たちと交流し、総合主義と呼ばれる画風を確立しました。これは、自然からの印象ではなく、想像力や記憶、感情に基づいて色彩や形態を組み合わせるというものでした。ゴーギャンはまた、木版画や陶芸などの他の芸術形式にも挑戦しました。
アルルでの共同生活
1888年10月、ゴーギャンはフィンセント・ファン・ゴッホの招きでアルルに向かいました。ゴッホは南フランスのアルルで画家仲間と共同生活をすることを夢見ており、ゴーギャンを最初の仲間として迎えました。2人は同じ家に住みながら絵を描き、芸術論を語り合いました。しかし、性格や画風の違いから次第に対立するようになりました。1888年12月23日、ゴッホは精神的に不安定になり、自分の耳を切り落としてしまいました。この事件をきっかけにゴーギャンはアルルを去り、パリに戻りました。
晩年
ゴーギャンの晩年は苦難の連続でした。彼はタヒチで絵を描きながらも、フランスの文明から逃れられないことに不満を抱きました。彼はタヒチの人々の生活や文化を理想化しましたが、実際には彼らとの交流は限られていました。彼はまた、植民地政府やカトリック教会と対立し、反乱や裁判に巻き込まれました。彼は自分の作品がフランスで評価されないことにも苛立ちを感じました。彼は1897年に自伝的な小説『ノア・ノア』を書きましたが、出版することはできませんでした。彼は1898年に自分の代表作と考えた『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を制作しましたが、売ることも展示することもできませんでした。
1903年5月8日にマルキーズ諸島のアトゥオナでゴーギャンは亡くなりました。彼は心臓発作や梅毒の合併症によって死去したと考えられています。彼は自分の家の庭に埋葬されましたが、1973年に遺骨が掘り起こされてフランスに送られたという説もあります。彼の墓石には「ポール・ゴーギャン、フランス人、カトリック教徒」と刻まれています。
作品の紹介

水浴の女たち
1885年 国立西洋美術館この作品は、ゴーギャンがパリで制作した最初の作品です。印象派展に出展されましたが不評でした。ゴーギャンは印象派的な光や色彩ではなく形や線、構成や記号的な意味合いに重きを置き色彩も自然よりも強調されたものを使いました。水浴する女性たちの姿は古典的な美しさではなくプリミティヴな魅力を持っています。

黄色いキリスト
1889年 オルブライト=ノックス美術館ブルターニュの女性たちが祈りの中でイエス・キリストの磔刑が行われる様子を象徴的に描いています。ゴーギャンは、図形を定義するために大胆な線を多用し、影を女性たちにのみ残しています。風景の黄色、赤、緑という秋のパレットは、キリストの姿の中でも主要な色である黄色を反映しています。この絵画の大胆な輪郭と平面性は、クロワゾニスム(cloisonnism)のスタイルの典型的な特徴です。

四人のブルターニュの女の踊り
1886年 ノイエ・ピナコテークゴーギャンが初めてブルターニュ地方ポン=タヴァンに滞在した時期に制作したもので、ゴーギャンはここで自分らしい芸術表現を模索し始めます。この作品では、ブルターニュ地方の民族衣装を着た女性たちが祈りや歌や踊りなどの儀式している様子を描いています。ゴーギャンはブルターニュ地方の人々の信仰や伝統に興味を持ち、それを自分の芸術に取り入れようと、色彩や形態を自由に変化させ、平面的で装飾的な効果を狙っています。この作品からゴーギャンがプリミティヴな美しさを追求するきっかけとなりました。

タヒチの女
1891年 オルセー美術館タヒチの女性2人が海辺でくつろいでいる様子が描かれています。彼女たちは伝統的な衣装やアクセサリーを身につけていて、背景にはパンノキやココナッツの木が見えます。ゴーギャンは色彩や形態を自然よりも強調し、平面的で装飾的な効果を狙っています。彼はまた、タヒチ語で「メリエ」と書かれた看板を描き入れています。これは「夢」という意味で、ゴーギャンはこの作品で自分の夢想するタヒチの美しさを表現しています。

アレアレア
1892年 オルセー美術館アレアレアとは楽しいや喜ばしいことを表す言葉。2人の若いタヒチの娘が1本の樹木の傍らで腰を下ろしながらゆったりと過ごしており、その中のひとりは目を瞑りながら細い縦笛を奏でています。画面左下には一匹の神秘的な動物が赤茶色で描かれています。緑・黄色・赤の調和が素晴らしく、背景には、偶像を崇拝している女性たちが見えます。ゴーギャンはこの作品でタヒチの人々の生活や文化に対する敬意と憧れを表現しています。

我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
1898年 ボストン美術館この作品を手掛ける直前、ゴーギャンは愛娘アリーヌを亡くし、さらに自身の健康状態も悪化するなど、失意のどん底にありました。実際に本作を描き上げた後に自殺を決意していて、画業の集大成と考え、様々な意味を持たせたと言われています。
ゴーギャンの影響
ゴーギャンは、印象派の画家たちとは異なる独自の画風を確立し、近代美術界に大きな影響を与えました。彼は、自然主義的な写実を捨て去り、主観的な色彩や形態で対象を表現する「総合主義」を提唱しました。また、神話や宗教、民族文化などの象徴的な要素を取り入れることで、画面に深みやメッセージ性を持たせました。
ゴーギャンの画風は、後にナビ派の画家たちに引き継がれました。ナビ派とは、「預言者」や「導き手」という意味のブルトン語で名付けられた美術運動で、ポール・セリュジエやモーリス・ドニなどが所属していました。彼らは、ゴーギャンの影響を受けて、色彩や形態を自由に変形し、装飾的な画面構成を目指しました。また、宗教や神話などの主題を選び、絵画に精神性や理想性を求めました。
ゴーギャンの画風は、20世紀の美術にも多大な影響を与えました。特に、南国タヒチで描いたプリミティヴィスム(原始主義)的な作品は、パブロ・ピカソやアンリ・マティスなどの画家に刺激を与えました。彼らは、ゴーギャンの作品からアフリカやオセアニアの民族芸術の魅力を知り、それらを自分たちの作品に取り入れることで、新しい表現法を開拓しました。
まとめ
ゴーギャンは、印象派の画家たちと交流しながら絵画の修業を始めましたが、やがて彼らと決別し、自分なりの絵画理論を追求するようになりました。絵画における色彩や形態の自由な変形や組み合わせ、「総合主義」と呼ばれる独自の美術様式、「プリミティヴィスム」と呼ばれる原始的な表現法などを確立しました。彼は、生涯にわたって旅を続け、それぞれの土地で出会った自然や人々や文化に触発され、多くの作品を残し、その後の美術界に大きな影響を与えました。
ゴーギャンは、近代美術の先駆者として、今もなお多くの人々に愛されています。