パブロ・ピカソ
2023.10.01 ピックアップアーティスト芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。
このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

今回は、20世紀で最も影響力のあった画家の一人であり、キュビスムの創始者として知られるパブロ・ピカソをピックアップします。
ピカソは生涯におよそ13,500点の油絵と素描、100,000点の版画、34,000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な画家としてギネスブックに記されています。
その多様性と革新性は後世の芸術家たちに大きな刺激を与えました。彼の生涯と代表作品を通して、彼の芸術性や人間性に迫ってみましょう。
ピカソとその時代
パブロ・ピカソが生きた20世紀は、世界史上でも特に激動の時代でした。この時代は、第一次世界大戦や第二次世界大戦、スペイン内戦や冷戦などの大規模な紛争や革命が起こり、社会主義やファシズムなどの思想運動、女性解放や人種差別反対などの社会運動など、政治的にも社会的にも様々な変化が起こりました。また産業革命や科学技術の発展により、都市化や交通機関の発達、通信手段の拡充などが進み、人々の価値観や生活様式や文化にも大きな影響を与えました。
このような時代背景の中で、芸術も大きく変化しました。伝統的な美術観や技法にとらわれない新しい芸術運動が次々と誕生します。印象派やポスト印象派、フォーヴィスムや表現主義、キュビスムやダダイスム、シュルレアリスムなどの新しい画風が登場し、それぞれ異なる視点や手法で、古典的な写実的な表現であった芸術の概念を壊し、自由な印象や感情の表現へと移行していきました。さらに、心理学や哲学の発展により、人間の内面や無意識に関心が高まり、芸術作品にも反映されました。
パブロ・ピカソは、これらの芸術運動に積極的に関わり、また自らも新たな芸術運動を創造しました。彼は常に時代の最先端を走り続ける画家でした。
ピカソの生い立ち

パブロ・ピカソは1881年10月25日にスペイン南部の港町マラガで生まれました。
彼は長い名前を持っており、正式にはパブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソという名前でした。
この名前はキリスト教の洗礼名と血縁関係の名前を混ぜたものでしたが、彼は後に父方と母方の姓であるルイスとピカソのうち、ルイスを省いてパブロ・ピカソと名乗るようになりました。
ピカソの父はホセ・ルイス・ブラスコという名前で、美術教師や美術館の学芸員でした。
ピカソが幼い頃から父親によって、歴代の名画の模写、石膏像やモデルのデッサンなど、伝統的でアカデミックな教育を受けました。やがて才能を示したピカソは、11歳の時には美術学校に入学します。
ピカソが13歳のときには、父が自分を超えたと感じて絵筆を渡したというエピソードがあります。
1891年に家族でコルドバに移り住み、1895年にはバルセロナに移りました。
バルセロナでは父親が王立サン・フェルナンド美術アカデミーの教師となり、ピカソも同じアカデミーに入学しました。しかし、ピカソは学校の授業に興味を持たず、自分で絵を描くことや友人と遊ぶことに夢中でした。
1897年にマドリードに移り、王立サンフェルナンド美術学校に入学しましたが、ここでも学校生活に馴染めませんでした。
ピカソはプラド美術館で古典的な絵画を模写したり、雑誌の挿絵を描いたりして過ごしました。また、この頃からパリへの憧れを強めていきました。

14歳の頃のデッサン
1895年 バルセロナ・ピカソ美術館美術アカデミーでは「アカデミック」なデッサン指導はまず手本を模写するところから始まり、段階的に現物の石膏像のデッサン、人物モデルのデッサンへと進められました。
青の時代
1901年に初めてパリに渡ったピカソは、フランスの画家ジョルジュ・ブラックと友人になり、共同でアトリエを借りました。ピカソはパリの芸術界に刺激を受け、自分の作風を模索しました。
この時期、ピカソはスペインのバルセロナとフランスのパリを行き来しながら、様々な芸術家と交流しました。
しかし、彼は貧困や孤独に苦しみ、親友のカルロス・カサヘマスが自殺したことに深く傷つき、悲しみと孤独を感じるようになりました。これらの経験は、彼の作品に深い影響を与えました。
彼は青や青緑などの寒色系の色彩で、悲しみや哀愁を感じさせる作品を多く描きました。この時期の作品は「青の時代」と呼ばれます。
この時期の作品では、ピカソは社会的な不正や不幸な人々に対する同情や怒りを表現しました。
彼は貧しい人々や病気の人々、老人や子供など、社会から見捨てられた人々を描き、これらの人々が抱える苦悩や孤独を感じ取り、自分自身もそれらと共感しました。
彼らの絵を描くことで、少しでも彼らの痛みを和らげることができると信じていました。
『人生』などがこの時期の代表作です。

人生
1903年 クリーブランド美術館子供を抱いた母親と対峙する裸の男女が描かれています。裸の男女は、自殺した友人カサヘマスとその恋人のジェルメーヌです。X線写真によると、ピカソは最初に自画像を制作し、その後友人の肖像画に描き換えたことが分かっています。この作品は若きピカソの自伝的な経験として、またカサヘマスへの鎮魂として制作されました。
バラ色の時代
1904年に再びパリに渡ったピカソは、モンマルトルのアトリエに住み着きました。
そこで彼はフェルナンド・オリヴィエという女性と出会い、恋に落ちました。彼女はピカソの多くの作品のモデルとなりました。
また、ピカソはゲルトルード・スタインやアンドレ・サロモンなどの芸術家や文化人とも親交を深めました。この頃からピカソの作品は色彩が明るくなり、サーカスや遊女などの楽しげな題材を描くようになりました。この時期の作品は「バラ色の時代」と呼ばれます。
この時期の作品では、ピカソは喜びや愛情を表現しました。サーカスや劇場で見た人々の姿に感動し、彼らの生き方や芸術性に共感しました。彼は彼らが持つ無邪気さや自由さを尊敬し、自分もそれらを目指しました。
ピカソはフェルナンドとの恋愛にも幸せを感じ、彼女を何度もモデルにして描きました。
『パイプを持つ少年』などがこの時期の代表作です。

パイプを持つ少年
1905年 個人蔵2つの花束に囲まれて座っている10代の少年が描かれています。ピカソは少年を「邪悪な天使」と表現し、聖体の血を象徴するバラの花輪は、若さから成熟への移行を表しています。左手に持つパイプは絵の内側ではなく外側から握られているかのように見え、少年がピカソ自身を反映しているという現実の融合を示唆しています。
アフリカ美術と原始主義
1906年にピカソはオリヴィエと共にスペインに旅行し、イベリア美術やアフリカ美術に触れました。これらの美術はピカソに大きな影響を与え、彼は形を極端に単純化したり、幾何学的に分割したりするようになりました。
1907年に制作した『アビニヨンの娘たち』は、このような画風の代表作となりました。この作品は当初、批評家や観客から非難されましたが、後に20世紀美術の画期的な作品として評価されるようになりました。

アビニヨンの娘たち
1907年 ニューヨーク近代美術館ピカソのキュビスムの始まりを示す作品であり、イベリア美術やアフリカ美術の影響を受けた5人の裸婦像を描いています。当初は「ブロテルの娘たち」という題名だったが、批判を避けるために「アビニヨン」というスペイン風の名前に変えられました。
キュビスム
1909年から1912年までの間、ピカソはブラックと共にキュビスムと呼ばれる新しい美術表現を確立しました。
キュビスムは、物体を立体的かつ多角的に見せるために、色彩や陰影を抑えて物体や人物を幾何学的な形に分解して再構成する芸術手法です。
キュビスムは当初、批評家や観客から理解されずに非難されましたが、「解析的キュビスム」と呼ばれる段階を経て、「合成的キュビスム」と呼ばれる段階へと発展しました。「合成的キュビスム」では、新聞や壁紙などの切り抜きや素材を絵画に貼り付けるコラージュやパピエ・コレ技法が用いられました。これらの技法は、絵画と現実との関係性を問い直すものでした。
この時期の作品では、ピカソは現実を一つの視点から見るのではなく、複数の視点から見ることを試みました。
彼は物体や人物を立体的に捉えることで、その本質や構造を明らかにしようとしました。色彩や陰影を抑えて、形や線に重点を置きました。
また、新聞紙や壁紙などの切り抜きを貼り付けることで、現実と絵画の境界を曖昧にしようとしました。
『マンドリンを持つ少女』などがこの時期の代表作です。

マンドリンを持つ少女
1910年 ニューヨーク近代美術館ピカソの当時の妻フェルナンド・オリヴィエを描いています。立方体、正方形、長方形などさまざまな幾何学形を使って少女の輪郭を分解し、一定の方向から描くのではなく、複数の方向から捉えています。ピカソがこの作品を未完成としていたことから、ピカソの制作工程を知ることができます。
シュルレアリスム
1914年から1918年まで第一次世界大戦が勃発し、多くの芸術家たちが戦争に巻き込まれましたが、ピカソは中立国であったスペイン国籍だったため兵役を免れました。しかし、戦争の影響はピカソの心にも深く刻まれました。彼は戦争に反対する姿勢を示し、1917年にはロシア革命に共感するようになりました。また、この頃からピカソはオリヴィエとの関係が冷めていき、バレエ団のダンサーであるオルガ・ココロワと恋に落ちました。彼女と結婚したピカソは、一時期は上流社会の生活を送りましたが、やがてその生活にも飽きてしまいました。
1920年代に入ると、ピカソはキュビスムから離れて、より古典的な表現に回帰するようになりました。彼はギリシャ神話や古代ローマの彫刻などを題材にした作品を制作しました。しかし、この時期の作品は、表面的には美しく整ったものであっても、内面的には不安や緊張が感じられるものでした。
1925年にはシュルレアリスムという芸術運動が登場しました。シュルレアリスムは、無意識や夢の世界を表現することを目的としており、ピカソもその影響を受けました。彼は人間の身体を歪めたり、無秩序に組み合わせたりすることで、恐怖や暴力を表現するようになりました。この時期の代表作として『ゲルニカ』があります。この作品は1937年にスペイン内戦でナチスドイツ軍によって爆撃されたゲルニカ市の惨状を描いた作品であり、戦争の悲惨さと反戦のメッセージを伝える作品として世界的に有名です。白黒の色彩と歪んだ形で、苦しみや恐怖に満ちた人々や動物たちの姿を表現しています。
ピカソはシュルレアリスムの画家たちとも交流しましたが、彼は自分をシュルレアリストとは呼ばず、自由な表現者であると主張し、自分の内面や感情を素直に表現することが重要だと考えていました。
私は対象を見たままにではなく、私が思うように描く。
パブロ・ピカソ

ゲルニカ
1937年 マドリード・レイナ・ソフィア美術館スペイン内戦でナチスドイツ軍によって爆撃されたグエルニカ市の惨状を描いた作品であり、戦争の悲惨さと反戦のメッセージを伝える作品として世界的に有名である。白黒の色彩と歪んだ形で、苦しみや恐怖に満ちた人々や動物たちの姿を表現している。

泣く女
1937年 ロンドン・テート・モダン美術館「ゲルニカ」の一部として描かれた女性像を拡大した作品であり、ピカソの愛人であったドラ・マールがモデルである。女性は手に持ったハンカチで涙を拭おうとするが、それが刃物になっていることに気づかない。この作品は、女性の悲しみだけでなく、ピカソ自身の苦悩や罪悪感も表現していると言われている。
晩年
第二次世界大戦中、ピカソはパリに留まりましたが、ナチスドイツ軍の監視下に置かれました。
彼は自分の作品が禁止されることを恐れていましたが、それでも芸術活動を続けました。戦後、ピカソは共産党員となり、平和運動や反核運動などに参加しました。また、彼はオルガと離婚し、マリー・テレーズ・ウォルテールやドラ・マールなどの女性と次々と恋愛関係を結びました。
これらの女性たちはピカソの作品のモデルとなりましたが、彼らとの関係は長続きしませんでした。
1946年から1958年までピカソは南仏のアントワープで暮らしました。
そこで彼はフランソワーズ・ジローという若い画家と出会い、2人の子供をもうけました。彼女と別れた後もピカソは南仏で暮らし続け、ジャクリーヌ・ロックという女性と再婚しました。
彼は1958年にヴォーヴナルグ城を購入し、そこで多くの作品を制作しました。
彼は自分の過去の作品や古典的な絵画を再解釈したり、版画や陶芸など様々な技法に挑戦したりしました。また、彼は自分自身を題材にした自画像を多く描きました。これらの自画像は、彼の老いや死に対する恐怖や孤独を表現していると言われています。
1973年4月8日、ピカソはムージャンの自宅で急性肺水腫により91歳で死去しました。
亡くなる直前まで創作活動を続けており、彼の周りにはクレヨンが散乱していたといいます。その13年後、彼の妻ジャクリーヌも自殺し、ピカソと同じ墓に入りました。
ピカソは生涯に5万点以上の作品を残しました。
彼の作品は現在、世界中の美術館やコレクションに収められており、多くの人々に親しまれています。彼は20世紀で最も影響力のあった画家の一人として、歴史に名を残しました。

緑のマニキュアを塗ったドラ・マール
1936年 ニューヨーク近代美術館ピカソの愛人であったドラ・マールがモデルである作品であり、彼女との激しい恋愛関係を反映する作品である。彼女は椅子に座っているが、顔や身体は分解されており、色彩も暗く重いものになっている。この作品は、ピカソのシュルレアリスム的な表現を示すものである。

手を組んで座るジャクリーヌ
1956年 パリ・ピカソ美術館ピカソは交際する女性が代わると画風が変わりました。彼女たちは彼に異なった創作インスピレーションを与えました。ピカソは、愛情が深い時、身の回りの女性を絵の中で魅力のある女性として描き、関係が悪化する時、彼女たちを醜くて、恐ろしい怪物のように描いたようです。また、彼と恋した女性の共通点は、すべて若くて美しくて、才能が抜群でした。そして、彼の生命に現れた女性たちは苦痛な運命が待っていました。

自画像
1972年 パリ・ピカソ美術館ピカソの晩年の自画像であり、彼が90歳になった時に描いたものである。彼は自分の老いや死に対する恐怖や孤独を表現しており、顔は歪んでおり、目は激しく光っている。この作品は、ピカソの生涯における最後の自画像となった。
ピカソの影響
パブロ・ピカソは20世紀で最も影響力のあった画家として、現代アートに多大な影響を与えました。彼はキュビスムやシュルレアリスムなどの芸術運動を牽引し、物体や人物を幾何学的な形に分解したり、無意識や夢や幻想を表現したりする技法を開拓しました。彼は絵画だけでなく、彫刻や版画や陶芸など様々な分野で創作し、その作品数は15万点以上にも及びます。彼は自らも共産主義者として政治的な活動に参加し、反戦や平和を訴える作品を制作しました。
ピカソの作品は後世の画家にも多大な影響を与えました。
抽象表現主義の画家ジャクソン・ポロックは、ピカソのキュビスムやシュルレアリスムの作品から影響を受けて、自由な筆触で色彩豊かに描く技法を開発しました。また、ポップアートの画家アンディ・ウォーホルは、ピカソの合成的キュビスムの作品から影響を受けて、新聞や雑誌などの切り抜きを絵画に貼り付ける技法を用いました。さらに、現代美術の画家ダミアン・ハーストは、ピカソの晩年の作品から影響を受けて、色鮮やかで歪んだ形態で描く技法を採用しました。
彼の作品は多くの人々に親しまれ、映画や音楽や文学など様々な分野にも影響を及ぼしました。
パブロ・ピカソはスペイン出身の画家であり、20世紀美術史における重要な画家の一人です。彼はキュビスムやシュルレアリスムなどの芸術運動を牽引し、絵画だけでなく版画や陶芸など様々な技法に挑戦しました。彼は自分の作風を常に変化させ、新しい表現を模索し続けました。
彼は自分の人生や恋愛や政治などを作品に反映させ、強烈な個性と感情を表現しました。
ピカソは20世紀の美術の潮流を決定的に変えた画家として、また現代アートの父として、彼は多くの芸術家たちに影響を与え、多くの人々に親しまれました。