アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック:モンマルトルの印象派
2023.06.23 印象派の芸術家たち
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、パリのモンマルトルという地区で活躍した、ポスト印象派の代表的な芸術家の一人です。彼の作品は、キャバレーや娼婦、ダンサーなど、夜の世界の人々を鮮やかな色彩と独特なタッチで描いたものが多くあります。また、ポスターやリトグラフなどの版画も得意とし、アール・ヌーヴォーの流行にも大きく貢献しました。
では、彼の生涯と作品について詳しく見ていきましょう。
生い立ち

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、1864年11月24日にフランス南部のアルビで生まれました。彼はトゥールーズ=ロートレック伯爵家という古い貴族の家系の出身でした。彼の両親はいとこ同士で結婚しており2、父親は変わり者で有名な人物でした。
幼い頃は「小さな宝石」と呼ばれて可愛がられていましたが、弟が夭折したことで両親の仲が悪くなり、8歳のときに母親と一緒にパリに引っ越しました。そこで絵を描き始めたロートレックは、母親に才能を見出されて画家からレッスンを受けるようになりました。
しかし、13歳と14歳のときにそれぞれ左右の大腿骨を骨折してしまい、その後脚の発育が止まってしまいました。彼は成人しても身長が152cmしかなく、胴体は正常だったものの脚だけが子供のままでした。この症状は近親婚による遺伝子疾患であったと考えられています。
病気によってアルビに戻ったロートレックは活動を制限され、父親から疎まれるようになり、孤独な青春時代を送りました。
モンマルトルで芸術家として活躍
1882年にパリに出たロートレックは、当初はレオン・ボナの画塾で学びましたが、まもなくして画塾が閉鎖されたため、モンマルトルにあったフェルナン・コルモンの画塾に移りました。そこではファン・ゴッホやエミール・ベルナールらと出会いました。
ロートレックは、モンマルトルのキャバレーやカフェに通い始めました。彼はそこで印象派の画家たちと交流し、彼らの影響を受けて自分のスタイルを確立しました。彼は、モンマルトルの夜の世界の人々を描くことに情熱を注ぎ、彼らと親しくなりました。彼は特に、モンマルトルで最も有名なキャバレーであるムーラン・ルージュに惹かれました。
ロートレックは、ムーラン・ルージュのポスターを制作することで有名になりました。彼は、キャバレーの看板娘であるラ・グールーやジャンヌ・アヴリルなどのダンサーたちを描きました。彼のポスターは、鮮やかな色彩と動きのある構図で、観客を魅了しました。彼はまた、キャバレーの舞台裏や客席も描きました。彼は、ムーラン・ルージュの常連客として知られており、自分の席や絵筆入れまで持っていたと言われています。
ロートレックは、キャバレーだけでなく、娼婦や売春宿もよく描きました。彼は娼婦たちとも親しくなり、彼女たちの日常生活や感情を描き出しました。彼はまた、自分自身も娼婦たちと関係を持ちましたが、その中には愛した女性もいました。彼は1894年にシフィリスに感染し 、その後もアルコールや薬物に溺れるようになりました。
晩年
ロートレックは、1899年に精神的な崩壊を起こし、母親に連れられてサナトリウムに入院しました。そこで彼は絵を描くことを禁じられましたが、やがて許可されて再び作品を制作し始めました。彼はサーカスや馬などの新しいテーマに挑戦しましたが、以前のような勢いは失われていました。
1901年9月9日に、ロートレックはシフィリスの合併症で死去しました。彼は36歳でした。彼の遺体はアルビに埋葬されましたが、彼の作品はパリで展示されました。彼の作品は、モンマルトルの印象派美術館やトゥールーズ=ロートレック美術館などで見ることができます。
代表的な作品

フィンセント・ファン・ゴッホの肖像
1887 ゴッホ美術館ロートレックとゴッホは友人であり、同時代の画家でした。彼らは共に画家としての道を歩み、互いに影響を与え合いました。この肖像画は、ロートレックがゴッホをどのように見ていたか、また彼がゴッホの芸術にどのように感銘を受けていたかを示しています。

洗濯女
1886 個人蔵ロートレックがパリで制作したカルメン・ゴーダンの一連の肖像画の1つ。ロートレックは、彼の好んだモデルの一人であったカルメン・ゴーダンを、仕事で疲れ果てて休憩する洗濯女として描きました。労働者階級の陰鬱な生々しい世界を描くことで、彼らの生活の厳しさと美しさを同時に捉えています。

赤毛のローザ
1887 バーンズ・コレクション彼は生涯を通して赤毛のモデルを好んで描きました。1884年、ロートレックはモンマルトルで友人と食事をしていた時に赤髪の美しい女性(カルメン・ゴーダン)を見出しまし、以後ロートレックはカルメンを13点以上の作品でモデルとして制作しました。

赤毛の女
1889 オルセー美術館女性の細く美しい背中から気だるさと強さを感じさせる作品です。座っている女性の後ろ姿をやや上の視点からとらえた構図は、ドガの影響と言われています。彼は美しい女性の外見ではなく、たくましく生活する女性の姿を表現することを目指していました。

ムーラン・ルージュのラ・グーリュ
1891 トゥールズ=ロートレック美術館ロートレックがムーラン・ルージュのポスターとして制作したリトグラフです。ラ・グーリュというのは、キャバレーの看板娘であるダンサーの芸名で、彼女のパートナーであるヴァレンティン・ル・デセオセとともに描かれています。背景には観客の顔がぼんやりと見えますが、その中にはロートレック自身や友人たちも含まれていると言われています。このポスターは、ムーラン・ルージュの人気を高めるだけでなく、ロートレックの名声も広めることになりました。

ムーラン通りのサロン
1894 トゥールーズ=ロートレック美術館ソファに凭れてくつろぐ女性たちは皆、客待ち顔の娼婦たちです。右端には下着をたくし上げた後ろ姿、そして唯一、肌を見せずに背筋を伸ばして座るのは、この高級娼館の女主人かもしれません。ロートレックの描く夜の女性たちは、鮮やかな反面、寂しげで虚無感を感じさせます。この作品からはそんな静寂が伝わってきます。
ロートレックの影響
これらの作品は、ロートレックの代表作の一部にすぎません。彼は生涯で約700点の油彩画と約5000点の版画を制作しました。彼の作品は、モンマルトルの人々の生活や感情を生き生きと描き出しており、現代にも通じる魅力があります。彼は短い生涯で多くの作品を残し、印象派の一員として歴史に名を刻みました。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックという画家は、貴族の家系に生まれながらも、病気によって脚が不自由になり、モンマルトルの夜の世界に没頭した画家でした。彼は印象派の画家たちから多くの影響を受けつつも、自分独自のスタイルを確立し、ポスターや版画などの大衆的なメディアにも積極的に取り組みました。彼はまた、ポスト印象派やアール・ヌーヴォーなどの新しい芸術運動にも影響を与えました。
ロートレックは印象派の画家たちから多くの影響を受けましたが、同時にポスト印象派への影響も与えました。彼は印象派の色彩感覚や光の表現を取り入れつつも、線や形を強調し、写実的ではない表現方法を採用しました。彼はまた、版画やポスターなどの大衆的なメディアにも積極的に取り組み、アール・ヌーヴォーやキュビズムなどの新しい芸術運動にも影響を与えました。彼は、パブロ・ピカソやアンリ・マティスなどの画家たちとも交流しました。
まとめ
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、貴族の家系に生まれながらも、病気によって脚が不自由になり、モンマルトルの夜の世界に没頭した画家でした。彼は印象派の画家たちから多くの影響を受けつつも、自分独自のスタイルを確立し、ポスターや版画などの大衆的なメディアにも積極的に取り組みました。彼はまた、ポスト印象派やアール・ヌーヴォーなどの新しい芸術運動にも影響を与えました。彼の作品は、モンマルトルの人々の生活や感情を生き生きと描き出しており、現代にも通じる魅力があります。彼は短い生涯で多くの作品を残し、印象派の一員として歴史に名を刻みました。
これらの作品は、ロートレックの代表作の一部にすぎません。彼は生涯で約700点の油彩画と約5000点の版画を制作しました。彼の作品は、モンマルトルの人々の生活や感情を生き生きと描き出しており、現代にも通じる魅力があります。彼は短い生涯で多くの作品を残し、印象派の一員として歴史に名を刻みました。