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エル・グレコ

2023.09.20 ピックアップアーティスト

芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

エル・グレコ

今回は、スペイン黄金期の画家エル・グレコをピックアップします。

エル・グレコは、16世紀から17世紀にかけて活躍した画家で、ギリシャ、イタリア、スペインという異なる国で絵を描きました。彼の作品は、マニエリスムの影響を受けながらも、独自の色彩感覚や構成力、表現力を発揮し、後世の多くの芸術家に影響を与えました。この記事では、エル・グレコの活躍した時代背景と生涯、そして代表作品を紹介します。

エル・グレコとその時代

エル・グレコが活躍した時代は、16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパで、宗教改革や対抗宗教改革が起こり、カトリック教会とプロテスタント教会が対立する激動の時代でした。
カトリック教会とプロテスタントとの対立は、ドイツやフランスなどで戦争や内乱を引き起こしました。 また、オスマン帝国の勢力拡大により、地中海東部ではキリスト教国とイスラム教国との争いが激化しました。

一方で、ルネサンスの影響により、芸術や文化も発展しました。 特にイタリアでは、ヴェネツィア派やローマ派と呼ばれる画家たちが活躍しました。
エル・グレコはこの時代にギリシャからイタリアへと渡り、ヴェネツィア派やローマ派の画家たちから多くの刺激を受けました。
この時代には、ルネサンスからバロックへと芸術様式が変化し、マニエリスムと呼ばれる反自然主義的な表現が流行しました。 マニエリスムは、ルネサンスの理想的な美や調和を否定し、奇抜な色彩や形態、構図を用いて、個性や感情を強調する芸術運動でした。

また、スペインは当時、ヨーロッパ最強の国でした。 カトリック国王フェリペ2世は、プロテスタントとの戦争やオスマン帝国との戦争に勝利し、新大陸からも多くの財宝を得ていました。
しかし、その一方で、オランダやイングランドなどからの反抗も受けていました。 フェリペ2世は宗教的な統一を図り、異端審問や迫害を行いました。

エル・グレコの生い立ち

エル・グレコ
エル・グレコ

エル・グレコは1541年にクレタ島のカンディア(現イラクリオン)で生まれました。
本名はドミニコス・テオトコプロス(Δομήνικος Θεοτοκόπουλος)でしたが、「エル・グレコ」という名前はイタリア語で「ギリシャ人」を意味する「グレコ」にスペイン語の定冠詞「エル」がついたもので、彼がスペインに移住した後につけられた通称です。

父は税関の職員であり、母は裕福な商人の娘でした。
幼い頃から絵を描く才能を示しましたが、当時のクレタ島ではビザンティン美術の伝統が残っており、彼もその影響を受けてイコン画家として修行しました。
1563年には独立した画家として自分の工房を開き、金地に描いたキリストの受難図などの作品を制作しました。

ヴェネツィア時代

1567年、26歳のグレコはクレタ島を離れヴェネツィアに渡ります。
ヴェネツィアは当時、芸術の中心地であり、ティツィアーノやティントレットなどの有名な画家たちが活躍していました。
グレコはティツィアーノの作品から色彩や光の表現を学びました。ティツィアーノの工房に入ったとも言われますが、確かな証拠はありません。

また、ジュリオ・クローヴィオというギリシャ系クロアチア人の画家と親交を結び、彼の紹介でファルネーゼ家という名門貴族のパトロンを得ました。
ファルネーゼ枢機卿の知的サークルに参加し、多くの人文主義者や芸術家と交流しました。 彼はファルネーゼ枢機卿の宮殿であるパラッツォ・ファルネーゼの装飾にも関わりました。
この時期には『エジプトへの逃避』などの作品を制作しました。

エジプトへの逃避

エジプトへの逃避

1567-1570年 プラド美術館

エル・グレコがヴェネツィア時代に制作した風景画で、聖家族がエジプトへ向かう様子を描いています。聖ヨセフ、聖母マリア、幼子キリストの3人の人物を美しい風景に中に配置していて、マリアは幼子を抱いてロバに乗っています。生き生きとして太った幼子は、橋を渡るためにロバを引こうとするヨセフの努力に好奇心を持って振り向いています。

ローマ時代

グレコは1570年にヴェネツィアを離れ、ローマに移ります。
ローマは当時、教皇庁の支配下にあり、カトリック教会の権威を示すために多くの芸術作品が注文されていました。

グレコはローマで教皇庁からの注文を得ることを望みましたが、その夢は叶いませんでした。
彼は教皇庁の美術顧問であるフェデリコ・ズッキャリと対立しました。 ズッキャリはマニエリスムの代表的な画家であり、グレコもその影響を受けていましたが、彼はズッキャリの作品を批判しました。
また、ミケランジェロやラファエロなどの巨匠の作品の模倣者たちにも批判的な目を向けました。
これらの言動は教皇庁から不評を買い、グレコはローマで孤立していきました。

ローマでグレコはサン・ルーカ画家組合に加入し、自分の工房を構えます。
ファルネーゼ枢機卿の侍従であったフルヴィオ・オルシーニという人文主義者がパトロンとなり、多くの肖像画や宗教画を依頼されました。
オルシーニの邸宅で多くの作品を制作した彼は、当時の教会や芸術界の保守的な風潮に反発し、自分の独自のスタイルを追求しました。グレコはマニエリスムと呼ばれる芸術様式に属していましたが、その中でも特に人体を細長く歪めたり、色彩を鮮やかにしたりすることで、劇的で幻想的な効果を狙っていました。
この時期には、『ロウソクに火を灯す少年』などの作品を制作しました。

ジュリオ・クローヴィオの肖像

ジュリオ・クローヴィオの肖像

1571年 カポディモンテ美術館

ローマ時代に制作した友人である画家ジュリオ・クローヴィオの肖像画。クローヴィオを高齢ながらも精神的に若々しく描きました。また、背景には彼が描いた地図や書物などが配置されており、彼の知性や教養を表しています。

ロウソクに火を灯す少年

ロウソクに火を灯す少年

1570 - 1575年 メトロポリタン美術館

イタリア時代の代表作。ロウソクに火を灯す少年の肖像画で、ファルネーゼ枢機卿の依頼によって制作されたものと考えられている。色彩や光の表現が非常に鮮やかで、少年の表情や姿勢が自然で愛らしい。

スペイン時代

グレコは1577年にローマを離れ、スペインに渡ります。
当時のスペインは、国王フェリペ2世が絶対的な権力を持ち、カトリック教会と密接な関係にありました。

グレコはフェリペ2世からマドリードのエル・エスコリアル修道院兼宮殿の装飾を依頼されます。グレコは教会の要求に従わず、独自の芸術観を貫き『聖母被昇天』『聖三位一体』を制作しました。
しかし、この作品はフェリペ2世に気に入られず、宮廷画家として採用されませんでした。

その後グレコはトレドという都市に定住し、そこで多くの教会や貴族からの注文を受けました。
トレドは当時、スペインの宗教的・文化的な中心地であり、カトリック教会の支配下にありました。グレコはその雰囲気に魅了され、トレドの風景や人々を描き、その独特な色彩や形態を表現しました。

聖母被昇天

聖母被昇天

1577 - 1579年 プラド美術館

グレコのトレドでの最初の作品で、サント・ドミンゴ・エル・アンティグオ教会の祭壇画の中心的な要素です。ティツィアーノによる『聖母被昇天』へのオマージュとも言われ、聖母マリアが上向きに浮かんで天に昇る様子を描いています。これは彼女の純粋さを象徴していて、一方、彼女の墓の周りに集まった使徒たちは驚きと不安を表現しています。

聖三位一体

聖三位一体

1577 - 1579年 プラド美術館

キャンバスに描かれた油絵で、サント・ドミンゴ・デ・シロス修道院のために制作された9つの作品のうちの1つです。父なる神が聖霊の鳩の下で御子なるキリストを抱いている姿を描いています。キリストの人体の描写からはミケランジェロの影響がうかがえます。

聖衣剥奪

聖衣剥奪

1577年-1579年 トレド大聖堂

マルコによる福音書、カルヴァリオの丘でのシーンが描かれています。当時の宗教画としては大変独創的な構成で、キリストよりも上に人物が描かれている点や、画面左下に聖母マリア、マグダラのマリア、小ヤコブの母などが描かれている点などが大聖堂側から避難を受けました。

晩年

晩年になるとますます独創的な作品を制作しました。
トレドで自分の工房を持ち、弟子や助手を抱え、多くの宗教画や肖像画を制作しました。彼は音楽や文学にも造詣が深く、トレドの知識人たちと交流していました。
自身の作品を「神秘的な幻視」と呼び、神と対話することを目指していました。

晩年の中で最も有名なのが『オルガス伯爵の埋葬』です。
この作品は1586年にトレド大聖堂近くのサント・トメ教会でオルガス伯爵が創設した礼拝堂用に依頼された祭壇画で、13世紀にトレドをムーア人から解放したオルガス伯爵とその家族や友人、聖職者や貴族、そしてグレコ自身も描かれています。
天上界と地上界という二つの世界を対比させながら、伯爵オルガスの死と栄光を表現しました。
グレコの色彩や光の表現、人物の造形、空間の構成などが見事に調和した傑作として高く評価されています。

1614年4月7日、トレドで37年間暮らしたグレコは73歳で亡くなりました。
遺言で自分の作品や財産を弟子であり息子でもあるホルヘ・マヌエル・テオトコプロスに譲りました。
彼の墓碑には友人の詩人による墓碑銘が刻まれています。

クレタ島が彼に生と絵筆を与え、トレドが彼の永遠の故郷となる

グレコは教会や修道院、貴族や市民からの依頼を受けましたが、自分の芸術観を貫いた画家であり、教会の要求に従わず、自分独自の芸術観を貫きました。
彼の作品は当時の美的規範から外れていたため、奇妙で異端なものと見なされ死後は長い間忘れられていました。
しかし19世紀末から20世紀初頭にかけて、彼の作品が再発見され、近代芸術家たちから高く評価されるようになりました。

胸に手を置く騎士

胸に手を置く騎士

1580年 プラド美術館

イタリアからスペインに到着してまもない時期に描かれた肖像画です。左肩がやや下がっていて、右手を胸に当てるポーズをとっていて、半身像で描かれた人物は富裕階級特有の暗い色の服を着用しています。無地の背景、襞襟と袖口のレースで強調された顔と手、身分を表す剣の柄や胸のメダルから見て貴族階級と考えられるこの人物は『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスという説があります。

オルガス伯爵の埋葬

オルガス伯爵の埋葬

1586 - 1588年 サント・トメ教会

エル・グレコ最高傑作とされる祭壇画。オルガス伯爵が創設した礼拝堂用に依頼されたもので、天上界と地上界を分ける巨大な画面にオルガス伯爵とその家族や友人、聖職者や貴族、そしてエル・グレコ自身が描かれている。色彩や光の表現、人物の造形、空間の構成などが見事に調和した傑作。エル・グレコがスペイン時代に制作したトレドのサント・トメ教会の祭壇画。伯爵オルガスとその家族を描いている。

受胎告知

受胎告知

1590 - 1603年 大原美術館

新約聖書における有名な受胎告知のシーンを描いた宗教画作品で、聖母マリアの下へ天使ガブリエルが降臨し、神の子イエスを身ごもることを告げていく場面が描かれています。グレコは同じ「受胎告知」をテーマとした異なる複数の作品を残しています。

黙示録第5の封印

黙示録第5の封印

1608 - 1614年 メトロポリタン美術館

トレドのタベーラ施療院内礼拝堂祭壇衝立のために描かれた作品で、主題は『ヨハネの黙示録』から取られています。天を仰いで幻視を見る青い衣の聖ヨハネが左手前を大きく占め、神による審判が近いことの印として、裸のままの殉教者の魂に衣が授けられる姿を描いています。グレコの死によって未完に終わったこの作品は、息子ホルヘ・マヌエル・テオトコプリと弟子たちによって完成されました。

エル・グレコの影響

エル・グレコの色彩や光の表現、形態の歪曲は、印象派や表現主義などの近代芸術家たちになどに影響を与えました。
セザンヌは『オルガス伯爵の埋葬』を見て「この画家は私たちと同じだ」と言ったと伝えられています。 また、ピカソは『黙示録第5の封印』を見て「キュビズムはエル・グレコから始まった」と言ったと伝えられています。 さらに、マティスモディリアーニバスキアなどもエル・グレコに影響を受けたと言われており、エル・グレコは「近代絵画の先駆者」と呼ばれるようになりました。
また、彼の作品はスペインやギリシャなどの国民的なアイデンティティを象徴するものとしても見られるようになりました。


エル・グレコはギリシャ出身で、イタリアやスペインで活躍したマニエリスムの巨匠です。 自分の芸術観を貫いた画家であり、時代や地域の枠を超えた独創的な作品を残し、後世の多くの芸術家に影響を与えました。
彼は今日ではスペイン黄金期を代表する画家として広く認められています。

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