ラディスラフ・シャロウン
2023.10.15 ピックアップアーティスト芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。
このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

今回は、チェコを代表する彫刻家の一人であるラディスラフ・シャロウンをピックアップします。
シャロウンは、プラハ旧市街広場に建つ『ヤン・フスの記念碑』や、『アントニン・ドヴォルザークの記念碑』など、チェコの歴史や文化に深く関わる作品を多く残しました。彼の生涯と代表作品を通して、彼の芸術性や人間性に迫ってみましょう。
シャロウンとその時代
シャロウンが活動した時代は、オーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあったチェコの民族運動が高まり始めた時期でした。
チェコ人は、ドイツ語やハンガリー語に押されて衰退していたチェコ語やチェコ文化の復興を目指し、言語や教育、文学、音楽、美術などの分野で活発な活動を展開しました。
この時期には、ドヴォルザークやスメタナといった音楽家や、アルフォンス・ミュシャといった画家が登場し、チェコの民族的なアイデンティティを表現する作品を生み出しました。
また、プラハには国民劇場や国立博物館などの重要な建築物が建設され、チェコ人の自信と誇りを高めました。
第二次世界大戦後、ナチス・ドイツによる占領と弾圧から解放されたチェコは、民主的な政治体制を再建しようとしましたが、すぐにソビエト連邦の影響下に入りました。
共産党は1948年に権力を掌握し、チェコスロバキア社会主義共和国を樹立しました。この政変は、多くの芸術家や知識人にとって自由と創造性の喪失を意味しました。
シャロウンはこの政変の前年に亡くなりましたが、彼の作品は共産主義体制下でも尊重され続けました。
シャロウンの生い立ち

ラディスラフ・シャロウンは1870年8月1日にプラハで生まれました。彼の生まれた時代は、チェコの文化復興運動が栄え、芸術と国民的アイデンティティが重要視されていた時期でした。
民間官僚であった父親フロリアンとその妻マリー、弟フリードリッヒという家庭で育ちました。若い頃から美術に興味を持ち、15歳から4年間、レイニエの製図学校で学びました。
美術学校を受験しようとしましたが、不合格となりました。1889年から1891年にかけてトマーシュ・セイダンとボフスラフ・シュニルヒの工房でデッサンと彫刻を学びました。この経験は彼の芸術的な才能を磨く重要な過程となりました。この時期に、チェコ現代彫刻の創始者と言われるヨーゼフ・ヴァーツラフ・ミスルベックや近代彫刻の父と言われるオーギュスト・ロダンの作品に触れ、大きな影響を受けました。
芸術家協会への参加
1896年7月5日にユリア・クヴェチョヴァと結婚し、クラロフスケ・ヴィノフラディに移りました。1年後に娘のルジェナが生まれ、その後息子のラディスラフが生まれました。
1896年から1905年にかけて、シャロウンはマネス芸術家協会の会員となり、雑誌のイラストレーターとして活動をはじめます。彼は芸術を取り扱う雑誌の編集者として、本の表紙や挿絵などを手がけました。
芸術家という視点、彫刻家という視点から、自分の考えや意見を理論的に書いたり、自身の作品を掲載したりなどして、スタニスラフ・スチャルダ、フランチシェク・ビレク、クヴィド・コシアンなどの著名人と交流を持ちました。
シャロウンはこのような活動の中で、当時の印象派や象徴主義、アール・ヌーヴォーに魅了されていきました。
多彩な活動
シャロウンは活動を続ける中で多くの公募展へ作品を出品しました。
1896年、プラハ市立博物館の装飾公募で賞を受賞します。1897年には、フランチシェク・パラツキーの記念碑の公募で彫刻家として選出され記念碑の制作に携わりました。
1903年からはチェコの画家アントニン・スラヴィチェクとともに私立美術学校の外部教師として勤めるようになり、1906年から1914年にかけて、プラハの美術工芸学校で教鞭をとりました。
また、建築家のアントニン・ヴィール、オズヴァルド・ポリフカや、ヨーゼフ・ファンタなどと、プラハの中央駅の建築などの彫刻装飾の共同作業を行い、ヴィノフラディの国立劇場にある人形劇ディヴァデルカではホールの壁画と天井の装飾をデザインしました。
さらに、テーブル ランプ、灰皿、瓶、宝石、宝石箱などのデザインも行い、銅や陶器に魅了されました。

鍛冶屋
1890年 モラヴィア美術館鍛冶の特質として右手にハンマーを持ったエプロンを着た男性の彫像は、鍛冶屋の男らしい力強さ、集中力、疲労感の表現されています。彫刻の全体のフォルムは、全盛期のシャロウンの彫刻の絵のように美しい光のモデリングと比較すると未成熟で、ディテールに重点を置いています。この彫刻は、オーギュスト・ロダンの影響が色濃く出ている作品の一つで、シャロウンが、立体にできる陰影による美しさを意識しています。

カーテンをかぶった少女
1920年シャロウンにとって、彫像は単なる文体の変化を意味するのではなく、思想を表現するための手段となります。この小さな彫刻「カーテンをかぶった少女 (ズザンカ)」は、シャロウンの特徴的なスタイルの魅力的な例です。これは、彫刻の静的な性質と、入浴、着替えなどの主題の雰囲気を組み合わせたものです。

悪魔とカーチャ
1923年 モラヴィア美術館ニェムツォバの国民的おとぎ話の1つで、ドヴォルザークの歌劇「悪魔とカーチャ」を題材として制作された作品です。カーチャは白い大理石、悪魔は黒御影石でできています。
彫刻家として
1901年、シャロウンはプラハの旧市街広場に建てられる『ヤン・フスの記念碑』の公募で選出され、長期にわたり記念碑の制作に取り組みました。
受賞の翌年1902年、個展のためにプラハを訪れていたオーギュスト・ロダンと会いました。当時のロダンは世界的に有名な彫刻家として知られており、まだ無名だったシャロウンは、チェコとパリの文化交流に尽力していた画家ズデンカ・ブラウネロヴァー、アール・ヌーヴォーの旗手アルフォンス・ミュシャらを介して、ロダンとの面会を実現しました。
『ヤン・フスの記念碑』の制作には、大きなスタジオが必要であったため、彼は制作用のスタジオと別荘を設計します。
この別荘は多くの芸術家の出会いの場となりました。彫刻家のフランティシェク・ビレク、詩人のオトカル・ブジェジナ、画家のアルフォンス・ミュシャ、歌手のエマ・デスティノヴァ、指揮者で作曲家のヤン・クーベリック、作家のヨーゼフ・ヴァハルなど著名人と別荘の地下で交霊会を開くこともありました。
この建物は、象徴主義建築の優れた特徴を備えたアール ヌーボー様式で設計されていて、レリーフで装飾され、十分な光、スペース、広さなど、すべての要件を満たしていました。後にプラハの傑出したモダニズム建築として保護されています。
石工の伝統を持つ町であるホジツェ市やリバン市にも同様の『ヤン・フス記念碑』を設計し、
プラハのアール・ヌーヴォー様式の市庁舎の建物に関わり、市庁舎には『ラビ・レーブの像』、『鉄の騎士』などの寓意的な彫刻が設置されました。こうして約15年という制作期間を経て『ヤン・フス記念碑』は完成します。
これにより、シャロウンはプラハを代表する彫刻家として、その名が知られるようになりました。

ラビ・レーブの像
1910年 プラハ新市庁舎プラハの著名な哲学者、教育者、神秘思想家であるラビ・レーブの像です。「ラビ」はユダヤ教でいうところの「牧師」のような役割でキリスト教でいうところの教会に相当するシナゴーグで説教を行った導師のことを指します。「レーブ」はヘブライ語の略称では「マハラル」と呼ばれます。彼は超自然的な世界と結び付ける人物で、ゴーレム(生命を吹き込まれた土偶)伝説の主人公としても著名です。

鉄の騎士
1911年 プラハ新市庁舎不気味に美しいこの騎士の像は、ボヘミア王ヨハネの側近ヤヒム・ベルカという騎士の幽霊を題材にしています。伝説によると、この騎士は誤解から恋人を殺害し、その呪いで黒い石の姿になったと言われています。騎士の足元には横たわる女性の姿があります。騎士は100年に一度だけ、女性の純粋な愛によって呪いが解かれると言われています。

ヤン・フス記念碑
1915年 プラハ旧市街広場14世紀の宗教改革者ヤン・フスを記念しています。フスは異端者として宣告され、1415年に火刑に処されました。現在チェコ独立の象徴でもある記念碑は、フスの没後 500 周年に除幕されました。彫刻群は、ほぼ楕円形の幅の広い花崗岩の台座の上に置かれています。台座の周囲全体には、「互いに愛し合いなさい、誰にも真実を否定しないでください ヤン・フス」という碑文が刻まれています。

ヤン・フスの記念碑(ホジツェ)
1914年 ホジツェプラハの記念碑とは異なり、これらはフスと同じレベルではなく、記念碑の両側の下層階にあります。フスの足元の岩の彫刻的処理は、聖書、クラル語、聖書からの翻訳の詩篇105篇「彼が岩を開けた、そして水が流れ、乾いた場所を川のように出て行った」からの抜粋によって補完されています。これは水が岩を伝って下の貯水池に流れ込むことを示しています。
彫刻家としての成功
彫刻家として成功を収め、多くの依頼を受けるようになったシャロウンは、プラハ市から才能を認められ、1912年、チェコ科学アカデミーの会員を務め、その後、名誉市民となります。1927年にはプラハ市の芸術評議員に任命されます。
シャロウンは、プラハのアール・ヌーヴォー様式の建物、ナーロドニー・トジーダのポジシュショヴナ・プラハ、ゼムスカ銀行の増築、フランチシェク・ヨーゼフ1世皇帝のナードラジーの装飾に大きく関わりました。それらの建物のファサードに数百もの彫刻を制作しています。
ヴィシェフラド墓地には『アントニン・ドヴォルザークの記念碑』『イェラービック家の墓の聖三位一体』などいくつかの墓碑や胸像が設置されています。
1931年、クラロフスケ・ヴィノフラディ市貯蓄銀行から、ナーメスティ・ミラに民族解放友愛記念碑の依頼を受けます。
この記念碑は、ヴィノフラディ市長とプラハ市長によって、チェコ人とスロバキア人のコミュニティを祝うためのものでした。
シャロウンは、馬に並んで乗る二人の男性の人物像を構想しました。男たちは手を伸ばし、大きな花輪を持ち、それを頭上掲げます。
しかし、この像の制作は実現せず、記念碑の縮小モデルのみが保存されました。
国立博物館のチェラコフスキー庭園には、国立劇場の主要な女優の一人であり、熱心な愛国者でもあった『オティリエ・スクレナーショヴァ=マレの記念碑』が1933年に設置されました。
ジトナー通りのソコル・プラジュスキーには、祖国を象徴する女性と国民を表す男性の像が1937年に設置されました。

アントニン・ドヴォルザークの記念碑
1914年 ヴィシェフラド墓地後期ロマン派に位置する作曲家で、チェコ国民楽派を代表する作曲家ドヴォルザークの記念碑として制作されました。嘆きの柳とハープをモチーフにしたアール・ヌーヴォー様式の石の台座の上に作曲家のブロンズ胸像が置かれています。

ヨーゼフ・レッセルの記念碑
1923年 レッセル広場ヨーゼフ・レッセルはチェコの発明家で、スクリューの発明者として知られています。チェコ共和国の文化記念碑としてレッセル広場の中央に立っています。長いコートをまとい、右足を前に出し、重心を左後ろ足に乗せ、左腕を腰に置き、右腕を体の前に置き、頭をわずかに前に傾けた発明家の等身大の人物像です。顔には険しい表情。銅像は石の砂岩の上に立っており、上部には「ヨーゼフ・レッセル」と刻まれていて、円錐形をしています。

ソウズヴク(協和音)
1927年 ジョフィン宮殿この彫刻はチェコの歌とも呼ばれ、スラブ島のジョフィン宮殿の建物の前に設置されています。ヘルメットをかぶり、三つ編みをした男性が「ソウズヴク」と刻まれた角柱状の階段状の台座の上に置かれています。バグパイプを抱える腕の筋肉は強調され、力強く立っている姿を通してスラヴ諸島全体の印象を表現しています。1946年にスラブ島のソフィア宮殿に設置されました。

オティリエ・スクレナーショヴァ=マレの記念碑
1937年 国立博物館国立劇場の主要な女優であったオティリエ・スクレナーショヴァ=マレの記念碑です。2.8メートルの等身大より大きな像は、シェイクスピアの『冬物語』のハーマイオニーに扮した彼女が、長く流れるマントをまとい、胸の上で腕を組んでいます。左手にはシナノキの枝を持っています。低い花崗岩の台座には、正面に「オティリエ・スクレナーショヴァ=マレ」、背面には「チェコ演劇芸術の天才/模範的な愛国者」という碑文が刻まれています。
晩年
1946年、チェコスロバキア人民芸術家の称号を授与されますが、その直後の1946年10月18日、プラハで76歳の生涯を終えました。
シャロウンはドヴォルザークやスメタナ、ミュシャなどチェコの重要な文化人の多くが埋葬される、ヴィシェフラド墓地に埋葬されました。
後年、シャロウンの孫であるダグマル・ドシュコヴァは祖父の人物像を次のように語っています。
「おじいさんは人々を愛し、自然を愛していました。たった1人の孫である私のためにたくさんの事をしてくれました。人形劇を作って私や友達のために上演してくれました。彼はセットとパペットを作り、それを美しく描きました。彼は家族や友人全員を劇場に魅了しました。」
ラディスラフ・シャロウンはプラハを愛し、プラハのために多くの作品を残しました。
彫刻家、多才な芸術家、教育者であったヤン・シャロウンは、スタイル的にもテーマ的にも、使用されている素材においても多様です。1927年から1946年に亡くなるまで、彼は首都プラハの芸術顧問として活動し、市の美術館の建設に尽力しました。
彼はアール・ヌーヴォー、自然主義、写実主義の時代のチェコの彫刻家であり、制作した記念碑的や作品の多くは、プラハ市立博物館、プラハ市立美術館、国立美術館、ホジツェ博物館に所有され、ヴィノフラディのスタジオなどの建築はプラハ国立博物館に引き継がれ、現代チェコ彫刻に多大な影響を与えています。
シャロウンの設計したスタジオは1958 年に国定記念物に指定されましたが、2006年大規模な改修を行い、現在は美術アカデミーに属し、客員教授のスタジオとして使用されています。