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エドゥアール・ヴュイヤール 

2023.09.09 ピックアップアーティスト

芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

エドゥアール・ヴュイヤール 

今回は、ナビ派の親密派画家エドゥアール・ヴュイヤールをピックアップします。

ヴュイヤールは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスの画家で、ナビ派のメンバーの一人です。 ナビ派とは、印象派に対抗して結成された芸術家グループで、色彩や形態を自由に変化させて、個性的な表現を目指しました。
ヴュイヤールは、その中でも特に室内や日常生活を描いた作品で知られており、「親密派」と呼ばれることもあります。 彼の作品は、平面的で装飾的な色彩と筆触によって、温かみと親しみやすさを感じさせます。

ヴュイヤールとその時代

エドゥアール・ヴュイヤールは、1868年から1940年までの長い生涯をフランスで過ごしました。彼が活躍した時代は、フランスの歴史や文化にとって大きな変革の時代でした。

ヴュイヤールが生まれた1868年は、フランス第二帝政の時代でした。この時代は、ナポレオン3世が皇帝として絶対的な権力を握り、パリの近代化や産業化を推進しました。
しかし、1870年に普仏戦争に敗れて帝政は崩壊し、第三共和政が成立しました。この時期は、政治的にも社会的にも混乱が続きました。1871年にはパリ・コミューンが起こり、市民革命が鎮圧されました。
また、ドレフュス事件や教会と国家の分離などの問題が発生しました。一方で、この時代は文化芸術の面でも多彩な発展が見られました。印象派やポスト印象派などの画家たちが登場し、新しい絵画の表現を追求しました。
また、写真や映画などの新しいメディアも登場しました。さらに、アール・ヌーボーと呼ばれる新しい装飾芸術の様式も流行しました。
ヴュイヤールが活躍した時代は、フランス社会が大きな変化を経験した時代でした。

ヴュイヤールの生い立ち

エドゥアール・ヴュイヤール
エドゥアール・ヴュイヤール

エドゥアール・ヴュイヤールは1868年11月11日にフランスのキュイゾーで生まれました。
父親は退役軍人の税関職員、母親は裁縫い物や刺繍をする仕立て屋でした。

1878年、家族と共にパリのモンマルトルへ移住します。
1884年に父親は亡くなりますが、母親は仕立て屋として働き続け、息子たちを厳しくも愛情深く育てました。ヴュイヤールと母親とは強い絆で結ばれており、ヴュイヤールが亡くなる日まで同居を続けました。

母親の職場で色彩や模様に触れる機会が多かったヴュイヤールは、幼い頃から絵画に興味を持ちました。母親はそれを快く思わず反対しましたが、ヴュイヤールは自分の才能を信じて絵画の道を志しました。

画家としての修業

1882年、ヴュイヤールはにパリに移住し、奨学金を受けてリセ・コンドルセで学びましたが、ケル・ザビエル・ルーセルとともにリセを離れ、ディオジェーヌ・マイラールのスタジオで美術を学びました。

1886年から1888年にかけて自由な校風であったアカデミー・ジュリアンに通いました。 ここでは、共にナビ派を牽引することになるピエール・ボナールモーリス・ドニと出会っています。

1889年にエコール・デ・ボザール(国立高等美術学校)に入学しますが、 伝統的な美術教育に不満を持ち、自分の個性を発揮することを求めて退学しています。

ナビ派

1888年には、ヴュイヤールはボナールやドニとともにナビ派と呼ばれる画家グループに参加しました。
ナビ派とは、「預言者」や「啓示者」を意味するヘブライ語から名付けられたグループで、印象派やポスト印象派の影響を受けながらも、独自の絵画表現を追求しました。 彼らは色彩や形態を自由に変化させて、個性的な作品を制作しました。

ナビ派の画家たちは、平面的で装飾的な色彩や形態、日常生活や私的空間を題材にした作品を多く制作しました。 彼らは、絵画だけでなく、ポスターや壁画、家具や陶器などのデザインも手がけました。

ヴュイヤールはナビ派の仲間や印象派の画家たちから影響を受けました。 ピエール・ボナールトゥールーズ・ロートレックと親交があり、彼らとともに文芸雑誌『ラ・レヴューブランシュ』に挿絵を描きました。
また、クロード・モネエドガー・ドガなどの印象派の画家たちとも交流し、彼らの筆触分割や光の表現法を学びました。

ヴュイヤールは印象派のように光や色の効果を追求するのではなく、空間や人物の関係性や心理を表現することに重点を置いていました。日本の浮世絵や染織品などに強い関心を持ち、その影響を自分の作品に取り入れました。
自身の母親や姉妹、友人たちの姿を温かみと親しみやすさを感じさせる色彩と筆触で描きました。

ベッドにて

ベッドにて

1891年 オルセー美術館

この絵は壁面で色彩を二分していて水平線と青い空のような色彩で描き、単純化された布は雪山のように捉えることができ、自然の安らぎを連想するような構図で描かれてかれています。ベッドで深い眠りに就いている子供からは、瞑想というよりは心地よい眠りの幸福感に満ちた印象を受けます。

花柄のドレス

花柄のドレス

1891年 サンパウロ美術館

彼の家の部屋で、母親が立って布地を仕立てている様子が描かれています。ヴュイヤールは母親にスポットを当て、ドレスの柄や色彩をより鮮明に描き、他の従業員と共に働いている様子を描いています。

ランプの下で

ランプの下で

1892年

この作品は、ヴュイヤールがナビ派の一員として活動していた時期の代表作です。夜の室内でランプの明かりを浴びる女性たちの姿が描かれています。女性たちは母親と姉妹であり、母親が仕立て屋として働いている様子が見えます。色彩は暗く抑えられており、筆触は平面的で装飾的です。この作品は、ヴュイヤールが日常生活や家族の情景を描くことに興味を持っていたことを示しています。

ジャポニスム

ヴィヤールは日本美術に大きな影響を受けた画家でした。浮世絵や屏風絵などの日本の版画を収集しており、 屏風絵や襖絵などの装飾芸術に感銘を受けた彼は、日本美術の平面的で装飾的な色彩や構図、細部へのこだわりなどを自分の作品に取り入れるようになりました。

ヴィヤールは度々、日本美術の主題やモチーフを採用しています。 日本風と西洋絵画を融合した屏風絵『ヴァンティミーユ広場』は、日本の屏風絵の形式を西洋の都市風景に適用したものです。 また、彼は日本美術の輪郭線や装飾性を用いて、室内空間や家庭生活などの親密な情景を描きました。

公園

公園

1894年 オルセー美術館

ナビ派の支援者であったアレクサンドル・ナタンソンから依頼を受け、9枚1組で制作された作品。泥絵具を用いて艶消し仕上げにしていて、色使いや構図、輪郭線を強調した平面的な描写には、日本画の影響が感じられます。

ヴァンティミーユ広場

ヴァンティミーユ広場

1911年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー

マーガレット・チョウピンの依頼を受けて制作された作品で、ヴュイヤールの自宅から見えるヴァンティミーユ広場を描いています。輪郭線をはっきりとした線で描き、奥行きを排除した画風は、日本美術からの影響と言われています。

新たな芸術への挑戦

1900年代に入ると、ヴュイヤールはナビ派から離れ、独自のスタイルを模索し始めます。 パリ郊外のアンジェルムやオルレアンなどで過ごすことが多くなり、そこで見た自然や田園風景を題材にした作品も多く制作しました。
自分の周囲の人物や風景を、より写実的で深みのある色彩や形態を用いるようになり、装飾芸術や壁画などの大規模な作品にも挑戦しました。

彼は、パリのオペラ座やシャイヨー宮、モンパルナス駅などの建物の内装を飾るために、多くのパネル画や屏風画を制作しました。 これらの作品は、ヴュイヤールが色彩や形態を自在に操ることで、空間に調和とリズムを与えることができることを示しています。
彼はまた、1898年にヴェネツィアとフィレンツェを訪れたのを初め、ロンドンやイタリア、スペインなどを旅行しました。 これらの旅行は彼の作品に新たな刺激を与えました。

ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂

ヴェルサイユ宮殿の礼拝堂

1917 - 1929年 オルセー美術館

ヴュイヤールは家族やプライベートな室内空間をテーマに取り上げることの多い画家でしたが、この作品は珍しく公共の場をテーマにしています。第一次世界大戦におけるフランス人としての国民感情が表現されていると言われています。

晩年と死

1930年代に入ると、ヴュイヤールは健康を害し、目も悪くなりましたが、絵画制作を止めることはありませんでした。ナビ派ジャポニスムなどの流行から距離を置き、独自の画風を確立しました。

ナビ派として活動していた頃のヴュイヤールは、平面的で装飾的な画風で日常生活や室内情景を描きましたが、晩年になるとより写実的で細密な技法を採用し、『ジャン・ド・ポリニャック伯爵夫人の肖像』などの多くの肖像画を制作しました。彼は依然として色彩や形態に自由な解釈を加えて、自分独自の視点から被写体の内面や人格を表現しようと試みました。

1937年にパリ万国博覧会のシャイヨー宮の壁画を制作しました。 この壁画は、フランス文化の発展を象徴する人物や場面を描いたものでしたが、第二次世界大戦中に破壊されてしまいました。

1940年6月21日に旅行中にラ・ボールで倒れ、救急車が到着する前に息を引き取りました。
死因は肺疾患であったと言われてます。遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬されました。

ジャン・ド・ポリニャック伯爵夫人の肖像

ジャン・ド・ポリニャック伯爵夫人の肖像

1928 - 1932年 オルセー美術館

ヴュイヤールが晩年に描いた多くの肖像画の一つです。彼は当時の有名な政治家や文化人を題材に選びましたが、彼らを写実的に描くのではなく、自分の感性や記憶に基づいて表現しました。この作品では、ポリニャック伯爵夫人の美しさや気品を強調するために、彼女の顔や服装に明るい色彩を用いています。また、背景には彼女が愛したバラの花や宮廷生活を象徴する装飾品を描いています。

ヴュイヤールの影響

ヴュイヤールは、自分の周囲の人物や風景を描き続けることで、自分なりの絵画表現を確立しました。彼は色彩感覚に優れており、時代や流行に左右されずに自由に色彩を使いこなしました。また、日常生活や私的空間を題材にすることで、人間の内面や感情を表現しました。絵画だけでなく、デザインや装飾芸術にも関心を持ち、多方面にわたって活動しました。
彼の作品は、後世の画家たちに多大な影響を与えました。フランスの画家アンリ・マティスやアメリカの画家エドワード・ホッパーなどは、ヴュイヤールの色彩や形態、題材などを参考にして自分の作品を制作しました。


エドゥアール・ヴュイヤールは、フランスの歴史や文化にとって大きな変革の時代を生きた画家です。彼はナビ派と呼ばれる画家グループに参加しましたが、その後も自分独自の絵画表現を追求しました。彼は色彩感覚に優れており、日常生活や私的空間を題材にして人間の内面や感情を表現しました。彼の作品は後世の画家たちに多大な影響を与えました。

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