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芸術家ミケランジェロの軌跡

2023.06.15 ミケランジェロ
芸術家ミケランジェロの軌跡

ミケランジェロはイタリア・ルネサンス期の天才芸術家として、彫刻、絵画、建築、詩など多方面で傑作を残しました。
彼の人生は、時代の流れに対してどのように生き、芸術的才能を開花したのでしょうか。

彼が芸術家として歩むドラマには、フィレンツェの最高権力者であったメディチ家と、彼の才能を利用しようとしたローマ教皇たちが大きな役割を果たしました。
この記事では、ミケランジェロとメディチ家が織りなす物語と、彼の作品が後世に与えた影響について紹介します。

幼少期

ミケランジェロは1475年3月6日、フィレンツェ共和国のカプレーゼで生まれました。
彼の父は小貴族であり、フィレンツェの行政官を務めていました。父親は彼に教育を受けさせようとしましたが、幼い頃から芸術に興味を持っていたミケランジェロは、父親の反対を押し切って画家ドメニコ・ギルランダイオの工房に入りました。そこで彼は絵画やフレスコ画の技法を学びました。

青年期

ロレンツォ・デ・メディチ
ロレンツォ・デ・メディチ

ミケランジェロは15歳のとき、フィレンツェの名門メディチ家が運営する芸術学校に入学しました。そこで彼は古代彫刻や人体解剖学を研究し、自らも彫刻を制作し始めました。

彼はメディチ家の当主であるロレンツォ・デ・メディチ(豪華王)に見出され、その庇護を受けるようになりました。ロレンツォはミケランジェロに自分の邸宅に住まわせ、多くの芸術家や知識人と交流させました。この時期に彼は『バッカス像』や『ピエタ』などの傑作を制作しました。

これらの作品は高く評価され、彼の才能と創造力が注目されるようになりました。

この頃、ルネサンス期の芸術が隆盛し、芸術家たちは教会や教皇からの注文を受けることが多くなりました。

ローマ時代

1492年にロレンツォが死去すると、ミケランジェロはフィレンツェを離れてローマへ向かいました。
そこで彼は教皇庁から注文を受けて『ダビデ像』やシスティーナ礼拝堂天井画などの代表作を制作しました。

システィーナ礼拝堂

システィーナ礼拝堂天井画は1508年から1512年まで4年間かけて完成させた壮大な壁画であり、キリスト教の創世から最後の審判までを描いています。
この壁画は当時から高く評価され、ミケランジェロの名声を不動のものにしました。

メディチ家出身のローマ教皇との関係

ミケランジェロはローマ教皇のもとで多くの作品を制作しましたが、その中でもメディチ家出身の教皇との関係は特に深いものでした。
ロレンツォの息子であるレオ10世は、ミケランジェロにサン・ロレンツォ大聖堂のファサードやメディチ家礼拝堂の設計を依頼しました。しかし、これらの作品は完成に至らず、ミケランジェロは多くの苦労やトラブルに見舞われました。

レオ10世のいとこであるクレメンス7世は、ミケランジェロにメディチ家礼拝堂の彫刻装飾を依頼しました。しかし、この時期にフィレンツェでは共和国派とメディチ派との間に内乱が起こり、ミケランジェロは共和国派に加担してフィレンツェを守るために要塞化工事に携わりました。
結局、フィレンツェはメディチ派に陥落し、ミケランジェロは恩赦を受けてメディチ家礼拝堂の作業を再開しました。この作品は1520年から1534年まで14年間かけて完成させたものであり、彫刻と建築の才能が総合的に発揮された傑作です。

『最後の審判』と晩年

1534年にミケランジェロは再びローマへ移り住みました。
そこで彼は教皇パウルス3世からシスティーナ礼拝堂の壁に『最後の審判』を描くことを依頼されました。
これは1536年から1541年まで5年間かけて完成させた大規模な壁画であり、キリストが人類を裁く場面を描いています。
この作品は完成後に批判も受けましたが、ミケランジェロの芸術的な表現力の高さを示すものでした。

1544年にミケランジェロは大病にかかり、二度も死を覚悟するほどの状態に陥りました。周囲からの要求に応えようとするあまり明らかな労働過多であったと言われています。
しかし、彼は回復し、教皇パウルス3世からサン・ピエトロ大聖堂の主任建築師に任命されました。彼はこれまでの設計を変更し、自らの構想に基づいて大聖堂を完成させることに尽力しました。彼は特にドーム部分にこだわり、円形のドームを採用しました。彼は生前にドームの完成を見ることはできませんでしたが、彼の設計はそのまま守られ、現在もローマのシンボルとして親しまれています。ミケランジェロは晩年になっても芸術活動を続けました。彫刻『ロンダニーニのピエタ』や詩集『詩篇集』などがその例です。彼はまた、友人や弟子たちと交流し、芸術家としての知識や経験を伝えました。

彼は1564年2月18日に88歳で亡くなりました。フィレンツェを愛したミケランジェロの遺言により、遺体はフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ教会に埋葬されました。

生前、彼はこんな言葉を残しています。

人間は自分の夢を達成するために、自分の限界を信じるべきだ。

ミケランジェロ・ブオナローティ

ミケランジェロの作品の影響

ミケランジェロ・ブオナローティ
ミケランジェロ・ブオナローティ

ミケランジェロは生涯にわたって多くの困難や苦悩に直面しましたが、それらを乗り越えて自らの芸術的な理想を追求しました。彼の作品は今でも多くの人々に感動や影響を与えています。彼は彫刻家として人体の美しさや表現力を極め、絵画家として空間や構成、色彩などの技法を革新し、建築家として古典主義マニエリスムの橋渡しをしました。彼はまた、詩人として自分の感情や思想を率直に語りました。

彼はルネサンス芸術の最高峰として称えられるだけでなく、後世の芸術家たちにも多大な影響を与えました。バロック芸術の代表的な画家であるカラヴァッジョベルニーニは、ミケランジェロの作品から強い刺激を受けました。また、19世紀のロマン主義の画家であるドラクロワも、ミケランジェロの作品に感銘を受けました。20世紀になっても、ミケランジェロの作品は現代芸術家たちにインスピレーションを与え続けています。例えば、キュビズムの画家であるパブロ・ピカソは、システィーナ礼拝堂天井画の『アダムの創造』を模写したことがあります。また、抽象表現主義の画家であるポロックは、『最後の審判』に影響されたと言われています。

ミケランジェロは芸術史上において、最も偉大で多才な芸術家の一人として認められています。

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