ARTSTUDIOWhitePallet

ジョン・シンガー・サージェント

2023.07.30 ピックアップアーティスト

芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

ジョン・シンガー・サージェント

今回は、肖像画家として知られるアメリカ出身の画家ジョン・シンガー・サージェントをピックアップします。

サージェントは、約900点の油彩画と2000点以上の水彩画を残し、ヨーロッパやアメリカの名士たちの肖像画で名声を博しました。しかし、彼は単なる社交界の画家ではなく、印象派の影響を受けた風景画やスケッチも多く制作しました。
また、彼の作品は、独自の筆致と色彩で人物の内面や性格を表現していいて、同性愛的な傾向やジェンダーの非標準性、新興のグローバリズムなど、社会的にも芸術的にも先進的で革新的な要素が見られます。

サージェントとその時代

サージェントは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した画家です。彼は主に肖像画家として知られていますが、風景画や水彩画も得意としました。
多くの有名人や貴族の肖像画を描きましたが、それぞれの人物に対して異なるアプローチを取りました。彼は道具や背景や衣装などを巧みに使って、人物の階級や職業や性格を暗示しました。
彼はアラ・プリマと言われる技法を用い、迅速かつ繊細に筆を動かし、一見すると偶然的に見えるような効果を生み出しました。しかし、その背後には高度な技術と観察力がありました。

サージェントは、1880年代から1890年代にかけて、エドワード朝と呼ばれる時代に活躍しました。
この時代は、イギリス国王エドワード7世(在位1901年~1910年)が象徴するように、華やかで豪華で洗練された社交界が栄えた時代でした。サージェントはこの社交界の人々を描くことで名声を得ましたが、同時に印象派の影響も受け続けました。
彼は1886年からクロード・モネと親交を深め、一緒に絵を描いたり展覧会に出品したりしました。サージェントは特に風景画や水彩画で印象派的な色彩と光の表現を駆使しました。彼はまた、ヨーロッパだけでなく、アメリカや中東などの地域にも旅行し、多様な風景や人々を描きました。

サージェントの生い立ち

ジョン・シンガー・サージェント
ジョン・シンガー・サージェント

ジョン・シンガー・サージェントは、1856年1月12日にイタリアのフィレンツェでアメリカ人の両親のもとに生まれました。父親はフィラデルフィアで眼科医として働いていましたが、長女の死後に妻とともに1854年にヨーロッパに渡り、その後は亡くなるまでアメリカに戻ることはありませんでした。
幼い頃から絵を描く才能を示し、両親から教育を受けました。彼はまた、多言語に堪能でした。彼は英語とフランス語とイタリア語とドイツ語を話せました。

パリ時代

1874年にはパリに移り、当時流行の社交界の肖像画家であるカロリュス=デュランに師事しました。この頃から、彼は印象派の技法にも実験的に挑戦し始めました。1876年には第二回印象派展覧会を見てクロード・モネと出会いました。
1879年にはスペインのベラスケスやオランダのハルスの作品を見るためにマドリードやハールレムへ旅行しました。この旅行が彼の画風に大きな影響を与えたと言われています。一部の批評家は、この旅行の直後に制作された作品が彼の最高傑作であると考えており、これらの作品は濃厚な暗色調でヴェネツィアの労働者階級の日常を描いています。

1884年にパリサロンに出品した『マダムX』で一躍有名になりましたが、この肖像画は当時の観衆から奇抜で官能的だと非難されました。この作品は、アメリカ出身でパリ社交界の美女として知られたヴィルジニー・ゴートロー夫人を描いたもので、彼女の黒いドレスが肩からずり落ちている姿がスキャンダルを巻き起こしました。
サージェントはこの作品を自分の傑作だと考えていましたが、不快に感じて右肩のストラップを上げるように修正しました。しかし、このスキャンダルに落胆したサージェントは翌年からロンドンへ拠点を移しました。

マダムX

マダムX

1883-1884年 メトロポリタン美術館

サージェントがパリで描いた最も有名な肖像画です。モデルはアメリカ出身の社交界の美女であるヴィルジニー・ゴートロー夫人を描いたもので、彼女の黒いドレスが肩からずり落ちている姿がスキャンダルを巻き起こしました。サージェントはこの作品を自分の傑作だと考えていましたが、不快に感じて右肩のストラップを上げるように修正しました。この作品は、サージェントの印象派的な筆触とベラスケスやハルスの影響を受けた構図と色彩を見事に融合させたもので、モデルの個性や社会的地位を強く表現しています。

イギリス時代

サージェントは1886年からロンドンに住み始めましたが、その前後にもヨーロッパ各地やアメリカや中東などを旅しました。彼は旅先で風景画や水彩画を描き、印象派の影響を受けつつも独自のスタイルを確立しました。彼はまた、多くの友人や知人と交流し、芸術家や作家や音楽家などと親しくなりました。
彼は特に女性との友情を大切にしましたが、恋愛関係には興味がないようでした。彼は同性愛者であったという説もありますが、確かな証拠はありません。

彼の作品は大陸的で前衛的すぎてすぐにはイギリス人の好みに合わなかったため、1887年まで批評家から冷遇されました。しかし、その年に『カーネーション リリー リリー ローズ』という日本風灯篭を灯す二人の少女を描いた作品がイギリス人の心を捉え、以後彼はイギリスとアメリカで絶大な人気を得るようになりました。

サージェントは1890年代から1900年代にかけて、英国やアメリカで最も人気のある肖像画家として活躍しました。彼は多くの有名人や貴族の肖像画を描きましたが、それぞれの人物に対して異なるアプローチを取りました。
彼は道具や背景や衣装などを巧みに使って、人物の階級や職業や性格を暗示しました。

サージェントはその後も多くの肖像画を依頼されましたが、次第にその制約に飽き足らなくなり、世界各地を旅行し、ベネチアやチロル、コルフ島、スペイン、中東、モンタナ、メイン、フロリダなどの風景を水彩画で捉えました。
彼は特に水彩画において卓越した技術と感性を発揮し、光や色彩や空気感を見事に表現しました。

カーネーション リリー リリー ローズ

カーネーション リリー リリー ローズ

1885-1886年 テート・ブリテン

サージェントがイギリスで描いた最初の大作で、彼の人気を決定づけた作品です。日本風灯篭を灯す二人の少女を描いたもので、サージェントは夕暮れ時の光と色彩を捉えるために屋外で制作しました。この作品は、印象派の影響とベラスケスやレイノルズの伝統を融合させたもので、幻想的で詩的な雰囲気を醸し出しています。

朝の散歩

朝の散歩

1888年 個人蔵

1885年から1886年にかけて、サージェントは印象派の影響を強く受けた作品を描きました。1887年にはジヴェルニーのモネを訪問しています。1888年の夏に制作されたこの作品は、モネが 1886年に描いた、「日傘の女(左向き)」と酷似しています。サージェントの作品は明るい夏の光があふれており、ドレスや草にまだら模様の効果を生み出しています。

ロックノーのアグニュー夫人

ロックノーのアグニュー夫人

1892年 ナショナル・ギャラリー・オブ・スコットランド

サージェントがロンドンで描いた肖像画の中でも最も有名なものです。モデルはスコットランド貴族であるアグニュー卿の妻で、サージェントは彼女の魅力的な表情と姿勢を見事に捉えました。この作品は、サージェントの流麗な筆触と明るい色彩とコントラストを効かせた構図とが見事に調和したもので、モデルの気品と知性とを表現しています。

突風

突風

1902年 個人蔵

サージェントがイタリアのチロルで描いた水彩画です。風に吹かれて帽子を押さえる女性とその娘を描いたもので、サージェントの水彩画の中でも最も有名なものの一つです。この作品は、サージェントの水彩画の特徴である素早く確かな筆触と明るく鮮やかな色彩とが見事に調和したもので、風の動きと光の効果を巧みに表現しています。

晩年

サージェントは1907年以降、肖像画から離れるようになりました。彼は壁画や屋外での制作に力を注ぎました。第一次世界大戦中には赤十字社や英国陸軍省から戦争画家としての依頼を受け、戦場の様子や負傷兵の姿を描きました。彼は戦争の惨状に深く心を痛め、その影響は彼の作品にも表れました。特に有名なのは、毒ガスによって苦しむ兵士たちを描いた『毒ガスをあびて』という作品です。

彼は晩年も精力的に制作を続け、1922年にはアメリカのボストン美術館の壁画『宗教の勝利』を完成させました。この壁画は、彼が1890年から始めたボストン公共図書館の壁画『世界の宗教』の一部で、彼の壁画制作の集大成といえます。 1924年には、イギリス王立芸術院の会長に選出されましたが、これを辞退しました。
1925年にロンドンで心臓発作により死去しました。彼の遺体はサリー州のブルックウッド墓地に埋葬されました。

毒ガスをあびて

毒ガスをあびて

1919年 帝国戦争博物館、ロンドン

イギリス情報省から依頼され制作された作品。ドイツ軍の毒ガス攻撃を受けた、多くの負傷者が、草の上に座ったり横になったりしている中を、救急隊員が10人あまりの負傷者を仮設の治療所へ導いている光景が描かれている。 兵士たちは、痛みを感じる目に布切れの包帯が巻かれて目が見えなくなっていて、前を進む兵士の肩に手を置いて進んでいます。

サージェントの影響

サージェントは、エドワード朝の華やかさを描いた肖像画家としてだけでなく、印象派の技法を取り入れた風景画家や壁画家としても高く評価されています。彼の作品は、光や色彩や空気感を見事に表現し、観る者に感動を与えます。彼はまた、同性愛的な傾向やジェンダーの非標準性や新興のグローバリズムなど、社会的にも芸術的にも先進的で革新的な要素を持っています。

サージェントは、後世の多くの画家に影響を与えました。例えば、アメリカの肖像画家ジョン・ホワイト・アレクサンダーは、サージェントの流麗な筆触と色彩感覚を学びました。イギリスの肖像画家フィリップ・ド・ラスロは、サージェントの友人であり弟子でもありました。スウェーデンの肖像画家アンデシュ・ソーンは、サージェントの作品に感銘を受けてパリへ留学しました。日本の洋画家黒田清輝は、サージェントの『マダムX』を見て衝撃を受け、自らも『眠れる女』という作品を描きました。


今回は、ジョン・シンガー・サージェントをピックアップしました。サージェントは、エドワード朝の社交界の人々を描いた肖像画で名声を博しましたが、それだけではなく、印象派の技法や旅先で見た風景や戦争の様子なども描きました。彼はまた、自分自身や他者の性やアイデンティティや文化に関する問題にも関心を持ちました。彼は、古典的な伝統と近代的な革新とを融合させた画家であり、後世の多くの画家に影響を与えました。

ログインできない場合 新規会員登録