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オーギュスト・ロダン

2023.09.16 ピックアップアーティスト

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芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

オーギュスト・ロダン

今回は、近代彫刻の父と呼ばれるフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンをピックアップします。

ロダンは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した画期的な彫刻家で、その作品は人間の生命力や感情を表現する力強さと繊細さを兼ね備えています。『考える人』や『地獄の門』などの名作は、世界中で親しまれています。では、ロダンはどのような時代背景の中で生まれ育ち、どのような生涯を送り、どのような作品を残し、どのような影響を与えたのでしょうか。ロダンの生涯と代表作品について見ていきましょう。

ロダンとその時代

ロダンが生まれた1840年のフランスは、ナポレオン戦争や七月革命などの混乱を経て、ルイ・フィリップ王の下で立憲君主制が確立されていました。この時代は七月王政と呼ばれ、産業革命による経済発展や社会変動が起こっていました。
1848年に二月革命が勃発しフィリップ王が退位すると、ナポレオンが大統領に選ばれ第二共和政が成立ました。その後1851年にナポレオンがクーデターを起こし皇帝となり、第二帝政が始まります。

第二帝政下のフランスは、産業革命や植民地拡張などで経済的に発展し、文化や芸術の面でも華やかな時代でした。
印象派と呼ばれる画家たちが登場し、従来の美術界の常識を打ち破る新しい絵画表現を展開し、写真や映画などの新しいメディアも発明されて普及し始めました。

1860年代からは自由主義的な改革が行われましたが、1870年に普仏戦争に敗北し、パリではコミューンと呼ばれる社会主義的な革命が起こります。やがて、第三共和政が成立し、パリ・コミューンや普仏戦争の影響で混乱する社会情勢を乗り越えて安定化していきます。
第三共和政期には象徴主義やポスト印象派と呼ばれる画家たちが活躍し、色彩や形態を自由に変化させる実験的な作品を制作しました。また、文学や音楽の分野でも新たな動きが見られました。この時代はベル・エポック(美しき時代)とも呼ばれています。

ロダンの生い立ち

オーギュスト・ロダン
オーギュスト・ロダン

オーギュスト・ロダンは1840年11月12日にパリで生まれました。 父親は警察官でしたが、後に職を辞して郵便局員になりました。母親は裁縫師でした。
幼い頃から絵画に興味を持ち、10歳の時には近所の画家にデッサンを習います。14歳の時にはプティ・エコールと呼ばれる工芸学校に入学し、絵画やデッサンを本格的に学びました。この学校では、彫刻家のオラース・ルフェーヴルと出会い、彫刻にも興味を持ち始めました。
17歳の時には、より専門的な美術教育を受けるために国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)を受験しますが、3年連続で不合格となります。
彼のデッサンは伝統的な美術教育の基準に合わなかったからだと言われています。しかしロダンは自分のデッサンが悪いとは思わず、むしろ教育の方が間違っていると考えました。この挫折はロダンにとって大きな打撃でしたが、彼は彫刻に対する情熱を失いませんでした。

装飾職人として

20歳になったロダンは国立高等美術学校への進学を諦め、室内装飾の職人として働き始めました。
彼は建物や家具の装飾や修復などの仕事を請け負いながら、独学で彫刻の技術を磨きました。1862年には、自分の作品をサロン(フランス芸術家協会主催の展覧会)に出展しますが、落選しました。

ロダンが24歳の時に裁縫師のローズ・ブーレと出会い、恋に落ちます。
ローズはロダンの最初の恋人であり、最後の妻でもありました。彼女は彼の作品のモデルや助手として、彼を支え続けました。1864年には息子をもうけましたが、生まれてすぐに死亡しました。1866年には娘をもうけましたが、これも生後数ヶ月で死亡しました。
この悲しみに耐えられなかったローズは精神的に不安定になり、ロダンとの関係も冷え込みました。

1864年から1870年まで、ロダンは動物彫刻家のアントワーヌ=ルイ・バリーの工房で働きました。
バリーはロダンに動物の解剖学や造形法を教え、彼の技術力を高める手助けをしました。この時期に彼は多くの彫刻を制作して学びました。

ローズ・ブーレ・アン・ミニョン

ローズ・ブーレ・アン・ミニョン

1870年 アンジェ美術館

ローズ・ブーレはロダンの生涯の伴侶であり、1917年にロダンが亡くなる数週間前に彼女と結婚しました。シャンパーニュ出身の素朴な洗濯婦であった彼女は、1864年にパリのゴブラン劇場の前で働いていたときにロダンと出会いました。彼女は彼のモデル(ミニョン、ベローネ、ラルザシエンヌ)を務め、時にはロダンの不在中には工房で粘土の世話をしたこともありました。

ベルギー時代

1870年に普仏戦争が勃発し、パリはドイツ軍に包囲されます。29歳であったロダンは家族を養うため、職を求めてベルギーに移住しました。

ブリュッセル証券取引所の建設に携わることになったロダンは、コツコツと貯金を続け、1875年、35歳にして念願だったイタリア旅行を実現します。
フィレンツェやヴェネツィアなどの都市を訪れ、ルネサンス期のイタリア彫刻を目にしました。中でも最も感銘を受けたのがミケランジェロ・ブオナローティの作品でした。
ロダンはミケランジェロの作品からその力強さや表現力や造形美を学び取り、自分の彫刻作品に生かそうと決意しました。

ベルギーに帰国したロダンは、ミケランジェロの影響を受けた作品を次々と制作しました。1877年、ロダンは等身大の男性像『青銅時代』を発表します。
この作品は、ベルギーの敗戦将だったオーギュスト・ローディエという男性をモデルに、彼の筋肉や皮膚の質感を細かく表現し、人間の生命力や苦悩を表現しました。

しかし、あまりにリアルで精密であったため、実際に人体から型を取って制作したのではないかという疑いがかけられました。これに憤慨したロダンは、一回り大きな同作品を制作し直してパリで再展示し、その嫌疑を払いました。
この作品が国に買い取られたことで、ロダンは彫刻家として認められるようになりました。

青銅時代

青銅時代

1877年 ブリュッセル王立美術館

ロダンが初めて発表した等身大の男性像です。彫刻家としての才能を認められたきっかけとなった作品ですが、そのリアリズムはあまりにも高く、生きた人間の型取りではないかと疑われるほどでした。実際にはベルギーの兵士がモデルとなっています。この作品は人間の肉体美や生命力を表現しています。

パリ時代

1877年、ロダンはパリに戻り、国立高等美術学校で彫刻の教師として働き始めました。

40歳を迎える頃、パリ市装飾美術館(後のオルセー美術館)から建設予定にあった国立美術館のモニュメント制作を依頼されます。そこでロダンがテーマに選んだのが、ダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』地獄篇の中に登場する『地獄の門』でした。

この作品は、多数の人物像が苦しみや情欲に満ちた様子で表現されていて、そのうちのいくつかの像が後に独立した彫刻作品として制作されました。
その一つである『考える人』は元々はダンテ自身を表す像でしたが、後に普遍的な人間の姿として解釈されるようになりました。この作品は人間の知性や思索力を表現しています。

その後も順調に傑作を生み続けたロダンでしたが、48歳のときに国立美術館の建設が中止になります。これに伴い『地獄の門』の制作も中止されましたが、ロダンは自費で制作を続けました。
この作品は、彼の生涯にわたって20年以上制作し続け、彼の代表作となりました。
やがて祖国フランス以外でもその名を知られるようになった彼は、デンマークのコペンハーゲンで開かれた展覧会で『考える人』を展示しました。


カミーユ・クローデル
カミーユ・クローデル

1883年、ロダンは工房で働く助手の一人であるカミーユ・クローデルと出会います。
当時19歳のカミーユは、才能と美貌を兼ね備えていた女性彫刻家で、ロダンの作品に多大な影響を与え、彼のモデルやパートナーとして共同制作も行いました。
次第にロダンはカミーユに惹かれ、やがて2人の関係は恋愛へと発展します。

しかし、ロダンはローズと別れることができず、カミーユは次第にロダンに対する嫉妬や不信感を募らせ、次第に精神的に不安定になっていきました。
1898年に二人の関係は破綻を迎え、カミーユは精神病院に入院し、1943年に亡くなりました。

考える人

考える人

1880年 ロダン美術館

ロダンが『地獄の門』の一部として制作した人物像を単体の作品として発展させたものです。元々はダンテ自身を表す像でしたが、後に普遍的な人間の姿として解釈されるようになりました。この作品は人間の知性や思索力を表現しています。

接吻

接吻

1882年 ロダン美術館

当初は「地獄の門」のモチーフとして制作されました。大理石で作られた最初の大型バージョンは、1889 年にフランス政府から万国博覧会の委託を受けて制作されました。

ダナイード

ダナイード

1889年 ブエノスアイレス国立美術館

もともと彼の『地獄の門』の一部として考案されましたが、最終的には含まれませんでした。アルゴスの王となったダナオスの娘、ダナイードが新婚初夜に夫を短剣で刺殺し、その罪の報いに地獄で底に穴のあいた甕に水を満たすという終わりの無い苦役に服されているというギリシャ神話に基づいています。この作品の女性は伝統的な構図ではなく、努力の無力さに完全に絶望した姿を表現しています。

新たな表現

1891年から、ロダンはフランス文学界の巨匠である『オノレ・ド・バルザック像』の制作を開始します。
この作品はバルザック没後10年を記念してフランス文芸家協会から依頼されたものでしたが、ロダンはバルザックの肖像写真や服装などを忠実に再現することを拒否し、彼自身が感じたバルザックの精神や個性を表現しようとしました。
その結果、ロダンが制作したバルザック像は肥満した裸体にガウンをまとった奇妙な姿で、文芸家協会には受け入れられず、バルザックの記念碑は拒否されました。ロダンはまた、カレー市から依頼された『カレーの市民記念像』を制作しましたが、この作品も当初は批判や反対に遭いました。

しかし、自分の作品に絶対の自信を持っていたロダンは、当時の彫刻界からの独立を宣言します。
ロダンは伝統的な古典主義や新古典主義とは異なる表現方法を追求し、人間の感情や苦悩をリアルに表現しようとしました。
彼はまた、自然主義や印象派とも一線を画し、光や影、空間や動きなどを重視しました。 これらの作品は、後に20世紀の芸術家たちから高く評価されることになります。

カレーの市民

カレーの市民

1889年 ロダン美術館

フランス王アンリ4世がカレー包囲戦で勝利した際に、市民6人が自ら犠牲となって降伏したという歴史的な出来事を題材とした作品です。ロダンは6人の市民のそれぞれの感情や個性を巧みに表現しました。この作品は人間の勇気や愛国心を表現しています。

バルザック

バルザック

1898年 ロダン美術館

フランス文学史上最大の小説家であるオノレ・ド・バルザックの記念碑として制作された作品です。ロダンはバルザックの肖像画や写真だけでなく、彼の著作や手紙も読み込んで彼の精神や個性を探ろうとしました。この作品は人間の創造力や才能を表現しています。

晩年

1900年、ロダンはパリ万国博覧会に合わせて自分の作品を展示する個展を開きます。
この個展は大成功を収め、ロダンは世界的な名声を確立しました。

その後もロダンは精力的に作品を制作し続けますが、私生活では苦難が続きました。
1905年にかつての愛人であったカミーユクローデルが精神病院に入院し、さらに第一次世界大戦の勃発によって多くの友人や弟子を失い、その悲しみから立ち直ることができませんでした。

1917年、ロダンは死期の迫ったローズと結婚します。
しかし、その16日後にローズは死亡すると、その後を追うように1917年11月17日、ロダンはムードンで生涯を終えました。

生前、ロダンはパリ近郊の自宅兼アトリエを国に寄贈し、そこをロダン美術館とすることを条件に、自分の作品やコレクションを全て寄贈しました。
1919年にロダン美術館が開館し、現在も多くの人々がロダンの作品を鑑賞することができます。

彼は生涯にわたって自分の芸術観や人間性を表現し続けた偉大な彫刻家でした。彼の作品は今もなお、多くの人々に感動や刺激を与えています。

地獄の門

地獄の門

1906年 ロダン美術館

中央に坐って墜ち行く人々を凝視する男は『考える人』は、門の頂に立つ『三つの影』は『アダム』と密接な関係を持っています。右端に『立てるフォーネス』と『瞑想』、左手に『オルフェウスとマイナスたち』のマイナスたち。右扉の下部に『フギット・アモール』、左扉中央に『ネレイスたち』、左の付け柱に浮彫の『美しかりオーミエール』、その柱の上に『うちひしがれたカリティード』、右の付け柱の上部に『私は美しい』の浮彫があり、この二人の男女を離したものが『考える人』の左の『うずくまる女』と左扉の上部から身をのけぞらせる男。ミケランジェロの『最後の審判』からの影響が垣間見えます。

ロダンの影響

ロダンは近代彫刻の父と呼ばれるだけでなく、後世の多くの芸術家に影響を与えました。
彫刻家としては、彼の弟子だったアントワーヌ・ブールデルカミーユ・クローデル、彼と親交のあったコンスタンティン・ブランクーシアリストティド・マイヨールなどが挙げられます。
また、画家としては、彼と同時代に活躍した印象派の画家たちや、後のパブロ・ピカソジョルジュ・ブラックなどのキュビズムの画家たちには、ロダンの断片的な造形や立体的な構成から影響を受けました。さらに、エドワード・ムンクフランシス・ベーコンなどの表現主義的な画家たちは、ロダンの感情的な表現や心理的な深みから影響を受けました。


ロダンは19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍し、その独創的で力強い作品で世界的な名声を得ました。自分の感性や個性を表現することにこだわり、人間の感情や心理を表すために新しい技法や素材を試みました。光や影や空間といった要素も彫刻作品の一部として考え、彫刻と周囲の環境との関係性を重視しました。自分の作品に対して常に実験的であり、後の芸術家たちに多大な影響を与えました。

ロダンはまた、人間味あふれる人物でもありました。恋愛や家族や友人といった人間関係で苦しみや喜びを味わいました。
彼は何度も挫折を経験し、何度も社会的な批判や誤解といった困難に直面しながらも自分の信念を貫きました。
ロダンは彫刻を通して、自分の人生を語り、そして私たちに人間という存在の本質や可能性を問いかけているのかもしれません。

経験を賢く生かすならば、何事も無駄にはならない。

オーギュスト・ロダン

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