モリゾとカサットとブラックモン:印象派の女性芸術家たち
2023.06.22 印象派の芸術家たち
印象派の画家たちは美術史において革命的な存在でしたが、ベルト・モリゾやメアリー・カサットのような女性画家たちは、二重の意味で革命的な存在でした。
当時の社会では、女性は芸術家として認められにくく、男性画家たちと同じように制作することも展示することも困難でした。
しかし、女性画家たちは印象派のグループに参加し、自分たちの視点や感性を表現しました。彼女たちは女性ならではのテーマや場面を描き、印象派に新しい息吹をもたらしました。また、彼女たちは後世の女性芸術家たちに影響を与えることにもなりました。
この記事では、印象派の代表的な女性画家であるベルト・モリゾ、メアリー・カサット、マリー・ブラックモンについて、彼女たちの生涯や代表作品を紹介し、彼女たちが与えた影響について考察します。
印象派の女性画家
印象派のグループには多くの男性画家が参加していましたが、女性画家は少数でした。その中でも最も有名で重要な役割を果たしたのが、ベルト・モリゾとメアリー・カサットです。彼女たちは印象派展に定期的に参加し、多くの作品を発表しました。
また、他の印象派の画家と交流し、影響を受けたり与えたりしました。特にモリゾはエドゥアール・マネと親密な関係にあり、カサットはエドガー・ドガと親密な関係にありました。
モリゾとカサットは共通点が多い一方で、対照的な点もあります。モリゾはフランス生まれでパリで育ちましたが、カサットはアメリカ出身でパリに移住しました。モリゾはマネの弟と結婚し一人娘をもうけましたが、カサットは結婚せず独身でした。モリゾは私的な教育を受けましたが、カサットは公的な教育を受けました。モリゾは政治的な問題には無関心でしたが、カサットは女性の社会的地位の向上に関心がありました。
モリゾとカサットのほかにも、印象派には他の女性画家たちが参加していました。その中でも注目すべきは、マリー・ブラックモンです。彼女はカサットと同じくアメリカ出身でパリに移住しました。彼女はカサットと親友であり、共同制作や展示を行いました。彼女は印象派展には参加しませんでしたが、印象派の画家たちと交流し、印象派の技法や色彩を取り入れました。
ベルト・モリゾ

ベルト・モリゾ(1841年1月14日 - 1895年3月2日)は、フランスブルージュに生まれました。父親は高級官僚で裕福な家庭で育ちました。母親はロココ時代の画家ジャン・オノレ・フラゴナールの姪孫でした。彼女には2人の姉と1人の弟がいました。家族は1852年にパリに移りました。幼いころから絵画に興味を持ち、姉のエドマとともに家庭教師から美術を学びました。彼女たちはルーブル美術館で模写をしたり、戸外で風景画を描いたりしました。
1864年にサロン・ド・パリに初めて参加し、風景画を展示しました。その後もサロンに定期的に参加し、高い評価を得ました。1868年にエドゥアール・マネと出会い、彼の影響を受けました。マネはモリゾの作品を高く評価し、彼女を何度もモデルにしました。1874年からは印象派展に参加し、自分のスタイルを確立しました。彼女は主に女性や子供の日常生活を描きました。特に母子像は彼女の代表的なテーマです。彼女は母子像を通して、女性の感性や生活の喜びを表現しようとしました。

1874年にマネの弟のウジェーヌと結婚し、1878年に娘ジュリーを出産しました。夫婦仲も良く、モリゾは夫や娘を題材にした作品を多く描きました。1880年代に入ると、モリゾは印象派から離れて新しい技法や表現を試み始めました。点描法や色彩の対比などを取り入れて実験的な作品を制作しました。また、芸術家支援団体や芸術教育などにも積極的に関わりました。
1892年にパリで初めて個展を開き、大成功を収めました。しかし、1895年に肺炎で死去しました。モリゾは生涯に約800点の作品を残しました。彼女の作品はフランスやアメリカの美術館に収蔵されており、女性画家の先駆者として高く評価されています。彼女は後世の女性芸術家たちに大きな影響を与えました。特に、20世紀のフランスの女性画家たちがモリゾの作品に触発されて、自分たちの視点や感性を表現することを目指しました。
モリゾの作品

バルコニーの女と子ども
1872年 イトルソン財団マネの作品『フォリー・ベルジェールのバルコニー』に触発されて制作した作品で、モリゾとその姉エドマがモデルです。彼女たちはバルコニーに座っており、向かい合っています。彼女たちは視線を合わせておらず、会話もしていないようです。この作品はモリゾとエドマの関係や、女性の孤独感などを表現していると言われています。

ゆりかご
1872年 オルセー美術館1874年第1回印象派展に出品さた作品です、モリゾと共に絵画を学び作品を制作していたものの、結婚によりその道が閉ざされた姉エドマと、その2人目の娘ブランシュの姿で、対象への注目に特化した大胆な構図的アプローチや、母性を感じさせる繊細な女性的感性による表現が大きな特徴です。

舞踏会で
1875年 マルモッタン美術館舞踏会に出席するために美しく着飾った女性。大きく肩を出した「デコルテ」の服装、手袋、きれいに結い上げ花飾りをつけた髪、ロココ風の絵の描かれた扇子。これらは当時舞踏会に出席するために求められた完璧な服装でした。

夏の日
1879年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー忙しいパリから逃れるためにパリジャンがよく訪れるブローニュの森で、水辺の晴れたシーンを描いています。2人の若い女性がボートに乗っています。モリゾは、背景で馬車が速く通り過ぎるなど、細かいディテールを使って、一瞬の印象を表現しようとしています。構図に対して強いこだわりを持っており、事前にボートや女性たちの配置などを詳細に計画し、それを元に制作しました。

化粧室の女
1880年 シカゴ美術研究所印象派展に出品された作品で、モリゾ自身がモデルです。鏡台で化粧する女性が描かれています。彼女は視線を下げており、自分自身と向き合っています。光と影が効果的に使われており、色彩も明るく華やかです。

食堂
1886年 ナショナル・ギャラリーモリゾはしばしば娘ジュリーの子守をしていたバペットをモデルとして描きました。おそらく仕事中であったのだろうエプロンを身に着け、両手に何か器のようなものを持っています。モリゾは瞬間を捉えるような流動的なタッチで表現しています。
メアリー・カサット

メアリー・カサット(1844年5月22日 - 1926年6月14日)は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州アレゲニー市(現ピッツバーグ市)に生まれました。父親は銀行家で裕福な家庭で育ちました。幼いころから絵画に興味を持ち、15歳でペンシルベニア美術アカデミーに入学しました。しかし、そこでは男性中心の教育や保守的な画風に不満を感じました。1865年にフランスに渡り、パリで私立の美術学校に通いました。その後もイタリアやスペインなどヨーロッパ各地を旅しながら絵を描きました。
1874年に再びパリに定住し、エドガー・ドガと出会いました。ドガはカサットの作品を高く評価し、印象派展への参加を勧めました。カサットは1879年から1886年まで印象派展に参加し、自分のスタイルを確立しました。彼女は主に女性や子供の日常生活を描きました。特に母子像は彼女の代表的なテーマです。彼女は母子像を通して、女性の社会的地位や役割、感情などを表現しようとしました。

1890年代に入ると、カサットは印象派から離れて新しい技法や表現を試み始めました。日本美術の影響を受けて浮世絵風の作品を制作したり、パステルや版画など様々な媒体を使って実験的な作品を制作したりしました。また、女性参政権運動や芸術家支援団体などにも積極的に関わりました。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、カサットはフランスで戦争支援活動に参加しました。しかし、戦争の影響や糖尿病などの健康問題で絵画制作が困難になりました。1920年代には失明の危機に直面し、絵画制作から引退しました。1926年にパリ郊外の自宅で死去しました。
カサットは生涯に約2000点の作品を残しました。彼女の作品はアメリカやフランスの美術館に収蔵されており、女性画家の先駆者として高く評価されています。彼女は後世の女性芸術家たちに大きな影響を与えました。特に、20世紀のアメリカの女性画家たちがカサットの作品に触発されて、自分たちの視点や感性を表現することを目指しました。
カサットの作品

青い肘掛け椅子に座る少女
1878年 ナショナル・ギャラリーこの絵画は当時の子供像の中でも最も革新的なものの一つであるとされています。カサットが描く子供たちは大人によって支配されつつも無視されるという状況の象徴とされており、社会の制約の中で子供が感じるうんざりした感情を捉えていると評価されています。絵画全体にはドガの影響が見られ、非対称な構図やパターンが使用されています。

真珠のネックレスを持つ女性
1879年 フィラデルフィア美術館パリ・オペラ座のバルコニーに座る女性が描かれています。絵画の中では、女性が劇場の光景を鏡に映している様子が表現されており、カサットは人工照明の効果にも注目しています。女性は都会の夜の景色を楽しみながら、人々を観察しています。彼女は劇場に行くために上品に身を飾っており、絵画は印象派の特徴である素早い筆触が使われています。背景は緩やかな筆使いで描かれ、鏡の反射には華やかなシャンデリアも描かれています。絵画の豊かな色彩と明暗のコントラストが魅力的です。

眠たがる子どもを洗う母
1880年 ロサンゼルス郡立美術館「母子像の画家」とも言われたカサット。カサットが描いたのは、19世紀後半のパリに暮らすブルジョワジーの女性たちの日常だった。彼らと同じ空間で暮らし、同じ時間を過ごした女性画家だからこそ描けた、人のぬくもりや生活の気配が、見る者を画面の中の世界に引き込む。すべてを包み込むように受け止める母親の優しい眼差し。カサットの描いた母子像からは、静かに話しかける母親の声が聞こえてくるようです。

麦藁帽子の子供
1886年 ナショナル・ギャラリーメアリー・カサットは、母親と子供を描いた柔らかく穏やかな肖像画によって、エドガー・ドガやカミーユ・ピサロを含む画家たちから称賛と認められました。カサットは彼らの印象派グループに参加するために招かれた唯一のアメリカ人でした。彼女の美しい絵画は、19世紀末から20世紀初頭の男性中心の美術界において、女性の視点を提供しました。

舟遊び
1893 - 1894年 ナショナル・ギャラリー船に乗った知られざる女性、赤ちゃん、そして男性が描かれています。船はカヌースターンで、ボームがなく、3つのベンチがあります。船の内部は黄色で描かれています。この作品は、カサットの作品の中では珍しく屋外で描かれていて、日本画の影響ともとれる大胆な構図で画面を切っています。また、これは彼女の最も大きな油彩画の一つでもあります。

縫い物をする若い母親
1900年 メトロポリタン美術館この作品は、窓の前に座って縫い物をする母親を描いています。白いドレスを着た幼い子供が母親の膝に寄りかかり、絵の中からこちらに向かって外を眺めています。女性は緑のエプロンで覆われたストライプのドレスを着ており、窓の外の草地の緑と対照的です。
マリー・ブラックモン

マリー・ブラックモン(1844年10月1日 - 1937年10月17日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ウエストチェスター郡に生まれました。父親は裕福な実業家であり、母親は芸術家でした。
彼女は多くの同時代の画家とは異なり、労働階級の出身であり、ほとんど独学で絵を学びました。当初は当時流行していたロマン主義に影響を受け、人々が読書する様子や肖像画など、中世の小さな場面を描くことから始めました。彼女の中世美術への関心は、彼女がボネーグの古い修道院であるノートルダム・ド・ボネーグに近いウセル近くで育ったことによるものと考えられます。彼女はジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの指導を受けてスタイルが変化しました。アングルの人格と女性画家に対する厳しい制約から彼女は離れましたが、アングルと彼の弟子たちからの形式主義の影響は残り、彼女の初期作品に現れています。
1866年にルーヴルで絵を描いているとき、マリーは後に夫となるフェリックス・ブラックモンと出会い、1869年に結婚しました。フェリックスはジョセフ・ギシャール(1806-1880)の下で学んでおり、彼はアングルの弟子でした。1870年代には、マリーの作品にはアルフレッド・スティーヴンス(1823-1906)などの画家に対する感銘が現れたリアリズムの要素がありました。フェリックスは後に1874年の最初の印象派展に出展し、彼らの4回目の展覧会にも2人とも作品を出展しました。
1879年にメアリー・カサットと出会い、親友になりました。カサットはブラックモンの作品を高く評価し、印象派展への参加を勧めました。しかし、ブラックモンは印象派展には参加せず、独自の展示会を開きました。彼女は主に風景や花々を描きました。特に花々は彼女の代表的なテーマです。彼女は花々を通して、自然の美しさや生命力を表現しようとしました。
1880年代に入ると、ブラックモンは印象派から離れて新しい技法や表現を試み始めました。点描法や色彩の対比などを取り入れて実験的な作品を制作しました。また、版画や陶器など様々な媒体を使って制作しました。特に版画ではカサットと共同制作したり、日本美術の影響を受けたりしました。
1890年代に入ると、ブラックモンはアメリカとフランスを行き来するようになりました。アメリカでは自分の作品を展示したり、芸術家支援団体や芸術教育などにも積極的に関わりました。フランスでは自分の別荘で制作したり、友人たちと交流したりしました。
1920年代に入ると、ブラックモンは絵画制作から引退しました。しかし、彼女は芸術への関心を失わず、自分のコレクションや回想録などを整理したり公開したりしました。1937年にフランスで死去しました。ブラックモンは生涯に約1700点の作品を残しました。彼女の作品はアメリカやフランスの美術館に収蔵されており、女性画家の先駆者として高く評価されています。彼女は後世の女性芸術家たちに大きな影響を与えました。
ブラックモンの作品

庭の中のルイーズ
1877年 個人蔵庭園に座る白いドレスを着た女性を描いています。女性は優雅なポーズで座り、周囲の自然の中に溶け込んでいます。彼女の周りには豊かな植物や花が描かれており、自然の美しさと調和を表現しています。自身の妹であるルイーズ・キヴォロンをモデルにして描いたと言われています。彼女は家族の一員として、ブラックモンの作品に頻繁に登場しています。

セーブル
1880年 プティ・パレ美術館1880年の油彩画で、セーヴルが背景に見えるテラスに3人の人物を描いています。同じ題材とタイトルを持つ作品が少なくとも2つ存在します。スタイル的には、2つの絵には小さな違いがありますが、小さいバージョンが大きな作品の研究の一部であったかはわかりません。ブラックモンは1880年に制作した他の作品と同様に、屋外の光の中で白の色調の変化を探求しています。

日傘を持つ3人の女性
1880年 オルセー美術館当時流行していたフリルのついたドレスと高い胸部のスタイルを身に着けた3人の女性を描いています。中央の女性は、日本主義の人気スタイルである扇子を持っています。ブラックモンの義妹であるルイーズ・キヴォロンが両側の人物のモデルであり、中央の人物はブラックモン自身の姿を基にしています。。この作品はしばしば「Three Graces(三美神)」という愛称で知られており、西洋の美術でよく登場するローマ神話のカリテス(グラティア)として知られる3人の女神を指しています。

アフタヌーン・ティー
1891年ブラックモンが版画を使って制作した作品の一つで、カサットと共同制作したものです。テーブルに座る女性たちが描かれています。彼女たちは自然でリラックスした態度で会話しており、絵画や音楽などの話題に興味を持っています。この作品は日本美術の影響を受けており、平面的で装飾的な効果があります。

白いドレスの女性
1892年 オルセー美術館庭に座る白いドレスを着た女性を描いています。右下隅に「Marie B.」と署名されています。ブラックモンの異父姉妹であるルイーズ・キヴェロンは、19世紀のフランスでは女性画家の選択肢が限られていたため、彼女の絵画のモデルとなりました。庭の中の人物を描くことは、ブラックモンのような女性画家にとって、文化的な制約により屋外でプレ・アン・プレで絵を描くことが許されなかったため、自宅の庭でプレ・アン・プレをする能力を与えました。
印象派の女性画家たちの影響
彼女たちは、印象派の中で女性画家として活躍しました。彼女たちは当時の社会では珍しいことでしたが、自分たちの視点や感性を表現することを目指しました。彼女たちは女性ならではのテーマや場面を描き、印象派に新しい息吹をもたらしました。また、彼女たちは後世の女性芸術家たちに影響を与えることにもなりました。
特に、20世紀に入ってからは、女性芸術家たちがモリゾやカサットやブラックモンの作品に触発されて、自分たちの視点や感性を表現することを目指しました。例えば、アメリカの画家ジョージア・オキーフはカサットの作品に影響を受けて、自然や花々を描きました。また、フランスの画家タマラ・ド・レンピッカはモリゾの作品に影響を受けて、都会的な女性像を描きました。さらに、イギリスの画家バーバラ・ヘプワースはブラックモンの作品に影響を受けて、抽象的な彫刻を制作しました。
まとめ
この記事では、印象派の代表的な女性画家であるベルト・モリゾ、メアリー・カサット、マリー・ブラックモンについて、彼女たちの生涯や代表作品を紹介し、印象派に与えた影響や、後世の女性芸術家たちに与えた影響について考察しました。
彼女たちは印象派の歴史において重要な役割を果たしましたが、その一方で女性画家として多くの困難に直面しました。彼女たちは男性画家たちの支配する芸術界で自分の存在を主張することができず、作品の評価や展示の機会も限られていました。
カサットとブラックモンはアメリカ人であり、モリゾは結婚していたため、印象派の画家たちと同じように野外でスケッチすることさえ容易ではありませんでした。しかし、彼女たちはその制約を乗り越えて、自分の感性や視点を表現しようと努力しました。彼女たちは母性や友情などをテーマにして、親密で温かみのある作品を生み出しました。
彼女たちは印象派の歴史において重要な役割を果たしましたが、その一方で女性画家として多くの困難に直面しました。彼女たちの作品は今日でも多くの人々に感動や刺激を与えています。印象派の女性画家たちの作品を、彼女たちが「伝えたかったこと」を想像しながら鑑賞してみてください。