フィンセント・ファン・ゴッホ:印象派からポスト印象派へ
2023.06.23 印象派の芸術家たち
フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年にオランダ南部の牧師の家に生まれました。若い頃は画商や教師として働きましたが、聖職者を志してベルギーで伝道活動を行った際に画家を目指すことを決意しました。1886年にパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けましたが、独自の画風を追求するために南フランスのアルルに移りました。そこでポール・ゴーギャンと共同生活を始めましたが、2人の関係は悪化し、ゴッホは自ら耳を切り落とすという事件を起こしました。その後は精神的な発作に苦しみながらも画作を続けましたが、1890年に銃で自らを撃ち、死亡しました。彼は生前に売れた絵は1枚だけだったと言われていますが、死後に回顧展や書簡集が出版されることで急速に評価が高まりました。彼の作品はポスト印象派や表現主義などの後世の美術に大きな影響を与えました。
生い立ち~パリ時代

ゴッホは1853年3月30日、オランダ南部のズンデルトという村で牧師の父テオドルスと母アンナの間に長男として生まれました。彼は1歳年上の兄(同名)が死産した後に生まれたため、兄の墓石に刻まれた名前と同じ名前を付けられました。彼は幼少期から絵画や自然に興味を持ち、1869年から画商グーピル商会で働き始めました。しかし1876年に解雇されてからはイギリスで教師や書店員として働いたり、アムステルダムで神学部の受験勉強をしたりしましたが、どれも長続きしませんでした。
1878年末から1880年初頭にかけて、ゴッホはベルギーの炭坑地帯で伝道活動を行いましたが、教会から認められませんでした。この時期に彼は画家を目指すことを決意し、弟テオの援助を受けながら画作を始めました。彼はオランダのエッテン、ハーグ、ニューネン、ベルギーのアントウェルペンと移り住みながら、貧しい農民や労働者の生活を描いた暗い色調の絵を多く制作しました。この時期の代表作としては、ニューネンで制作した『ジャガイモを食べる人々』があります。
1886年2月、ゴッホはパリに移り、弟テオと共同生活を始めました。パリでは印象派や新印象派の画家たちと交流し、彼らの影響を受けて明るい色調や筆触の絵を描くようになりました。また、日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行いました。この時期の作品としては、『タンギー爺さん』や『自画像』などが知られています。
アルル時代
1888年2月、ゴッホは南フランスのアルルに移りました。彼はアルルで自然や人々の生活に触発されて多くの名作を生み出しました。特に『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などは有名です。彼は南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見ており、同年10月末からポール・ゴーギャンと共同生活を始めました。しかし、2人の関係は次第に行き詰まり、12月23日にゴッホは自ら耳を切り落とすという事件を起こしました。この事件は彼の精神的な不安定さを示すものであり、以後彼は発作に苦しみながらも画作を続けることになります。
サン=レミ時代
1889年5月から1890年5月まで、ゴッホはアルル近郊のサン=レミにある精神病院に入院しました。発作の合間にも彼は病院内や周辺の風景、聖書の場面などを描き続けました。この時期の代表作としては、『星月夜』や『カラスのいる麦畑』などがあります。彼はこの時期に自分の芸術観を深めていきましたが、同時に孤独感や絶望感も募らせていきました。
オーヴェル時代 晩年
1890年5月から7月まで、ゴッホはパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに住みました。彼はここでも多くの風景画や人物画を描きましたが、その中には自殺する前日に描いたとされる『カラスのいる麦畑』も含まれています。
1890年7月27日にゴッホは銃で自らを撃ち、2日後の29日に死亡しました。彼は生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』の1枚だけだったと言われていますが、死後に回顧展や書簡集が出版されることで急速に評価が高まりました。ゴッホは約10年の活動期間中に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点を残しました。彼の生涯は多くの伝記や映画などで描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といったイメージをもって語られるようになりました。
ゴッホの作品

ジャガイモを食べる人々
1885年 ゴッホ美術館ゴッホがオランダのニューネンで制作したもので、貧しい農民の食事風景を描いています。彼はこの絵に対して「農民の生活を表現することが私の目的だ」と書いており、暗い色調と重厚なタッチで農民たちの苦しさや尊厳を表現しています。この絵はゴッホのオランダ時代の代表作とされており、彼自身も「私がこれまでに描いた中で最も良い絵だ」と語っています。

ひまわり
1888年 ロンドン・ナショナルギャラリーアルルで制作したもので、ひまわりを花瓶に挿した静物画です。彼はひまわりを「太陽のようなものだ」と言っており、明るく鮮やかな色彩でひまわりの生命力や美しさを表現しています。この絵はゴッホがポール・ゴーギャンを迎えるために自分の部屋に飾ったもので、彼らの友情の象徴ともなりました。しかし後に2人は仲違いし、ゴーギャンはこの絵を「偽善的なものだ」と批判しました。この絵はゴッホの代表作として世界的に有名であり、複数のバージョンが存在します。

夜のカフェテラス
1888年描かれているのはアルルの街の夜の風景。を描いたあと、ゴッホは妹に手紙を書いている。『新しい夜のカフェの戸外の絵を描いていた。テラスで酒を飲む人々はほとんどいなかった。店の巨大な黄色のランタンの光がテラスや店の正面、床を照らし、通りの石畳みにまで光が伸びていた。照らされた石畳は紫色とピンク色を帯びていた。通りに面した家屋の切り妻壁は、星が散りばめられた青い空のもと、緑の木樹とともにダークブルーや紫の色を帯びていた。今ここに黒のない夜の絵画がある。美しい青、紫、緑と淡い黄色やレモングリーン色で照らされた広場だけがある。私は夜のこのスポットで絵を描くのが非常に楽しい。』

星月夜
1889年サン=レミの精神病院に入院中に制作したもので、病院の窓から見える夜景を描いています。彼はこの絵に対して「夜はより生き生きとしている」と書いており、渦巻く星や月、炎のような村の灯りなどを鮮やかな色彩と動的な筆触で表現しています。この絵はゴッホの最も有名な作品の一つであり、彼の内面世界や想像力を示すものとして多くの人々に親しまれています。

自画像
1889年サン=レミで制作したもので、自らを青い服に赤いひげという姿で描いています。彼は自画像を多く制作しましたが、この絵は特に有名であり、彼の精神的な状態や芸術観を示すものとして注目されています。彼はこの絵に対して「私は自分自身を悲しげな人物として描きたかった」と書いており、彼の目には深い苦悩や孤独が表れています。また、彼は色彩や筆触によって自分の感情や個性を表現しようとしており、ポスト印象派や表現主義へと向かう芸術的な進化が見られます。

カラスのいる麦畑
1890年オーヴェルで制作したもので、麦畑に飛び立つカラスを描いています。彼はこの絵に対して「私は自分の最後の絵を描いた」と書いており、暗く重苦しい色調と曲がりくねった道や空に表れる不安や孤独感が彼の死を予感させるものとして解釈されてきました。しかし実際には彼はこの絵の後にも何枚かの絵を描いており、彼自身もこの絵に特別な意味を込めたわけではなかったと考えられます。それでもこの絵はゴッホの最晩年の作品として高く評価されています。
ゴッホの影響
フィンセント・ファン・ゴッホは生前にはほとんど評価されなかった画家でしたが、死後に彼の作品は世界中で注目されるようになりました。彼の作品はポスト印象派や表現主義、フォーヴィスムなどの20世紀の美術運動に大きな影響を与えました。特に、彼の色彩感覚や筆触、感情の表現などは多くの画家たちに刺激を与えました。例えば、ポール・セザンヌは「ファン・ゴッホは私たちに太陽を与えてくれた」と言い、パブロ・ピカソは「ファン・ゴッホは私たちに自由を与えてくれた」と言っています。また、彼の作品は美術館や個人コレクションに収められるだけでなく、映画や音楽、文学などの他の芸術分野にも影響を与えました。例えば、ドン・マクリーンの『スタリー・スタリー・ナイト』やアキラ・クロサワの『夢』などがあります。
まとめ
この記事では、フィンセント・ファン・ゴッホの生涯と作品を通して、彼の芸術観と印象派からの影響、そして彼がポスト印象派へと進化した過程について解説しました。彼は短い生涯の中で多くの名作を残し、後世の美術にも大きな影響を与えました。彼の作品は感情や想像力が溢れており、今でも多くの人々に愛されています。彼は自分自身を「悲しげな人物」と描きましたが、彼の作品からは「太陽のようなもの」が見えてきます。