アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー
2023.10.08 ピックアップアーティスト芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。
このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

今回は、ロシア出身のドイツ表現主義を代表する画家アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーをピックアップします。
アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーは、色彩豊かで感情的な作品を生み出し、特に人間の「頭部」をモチーフにした一連のシリーズで知られています。彼の芸術は、ヨーロッパの様々な芸術運動や画家たちとの交流によって形成され、20世紀初頭のミュンヘンにおける芸術運動であるミュンヘン新芸術家協会や青騎士にも参加して、生涯旺盛に制作に取り組みました。
晩年には、人間の「頭部」をモチーフにして描き続けた一連のシリーズがよく知られています。彼の生涯と代表作品を通して、彼の芸術観や人生観、人間性を探ってみましょう。
ヤウレンスキーとその時代
ヤウレンスキーが活躍した時代は、19世紀末から20世紀前半にかけての動乱の時代でした。
ロシアでは、皇帝制から共産主義へと政治体制が激変し、第一次世界大戦やロシア革命、内戦などの混乱が続きました。
ドイツでは、第一次世界大戦で敗北し、ヴァイマル共和国が成立しましたが、経済危機や政治不安が続きました。第二次世界大戦では、ナチス・ドイツが台頭し、ヨーロッパを戦火に巻き込みました。
一方で、この時代は芸術や文化の面でも革新的な時代でもありました。
特にヨーロッパでは、印象派やポスト印象派、フォーヴィスムやキュビスム、表現主義などの新しい画風が次々と登場しました。
これらの画風は、従来の写実主義や古典主義とは異なり、色彩や形態、構成などを自由に変形したり抽象化したりして、より主観的な画家自身の感情や個性を表現することを目指しました。
また、音楽や文学や建築などの分野でも、新しい技法や表現方法が開発されました。これらの芸術運動は、社会的な変化や科学技術の発展とも関連していました。
ヤウレンスキーは、このような芸術的な刺激に満ちた時代において、自分自身の画風を模索し発展させていきました。彼は、ロシアやドイツだけでなく、フランスやスイスなどでも多くの画家と交流しました。特にカンディンスキーやパウル・クレーなどとは親密な友情を築きました。
彼らと共に参加したミュンヘン新芸術家協会や青騎士は、ドイツ表現主義の重要なグループとして評価されています。
ヤウレンスキーの生い立ち

ヤウレンスキーは1865年3月25日(旧暦3月13日)、ロシア帝国トルジョーク近郊の貴族の家庭に生まれました。
父は軍人、母は父の後妻で、ヤウレンスキーは6人兄弟の5番目でした。1880年に初めて万国博覧会で絵画の展示を鑑賞しました。これが彼の人生を変える出来事となりました。彼は絵を描き始め、定期的にトレチャコフ美術館を訪れました。
彼は16歳までモスクワで育ちましたが、父は彼が17歳のときに亡くなりました。
彼は父の遺志を継いで軍人になることを期待されましたが、絵画に強い憧れを抱いて独学で勉強しました。彼は独学で絵を勉強し、トレチャコフ美術館に通って画力とデッサン力を養いました。
1886年に士官学校を卒業し、軍人となりました。1889年にサンクトペテルブルクに異動しましたが、そこでも絵画への情熱を捨てませんでした。
夕方にはロシア帝国芸術アカデミーに通い、ロシアの写実主義を代表するイリヤ・レーピンの紹介でマリアンネ・フォン・ヴェレフキンという女性画家から個人指導を受けました。
ヴェレフキンは裕福な男爵令嬢で、「ロシアのレンブラント」と呼ばれていました。彼女はヤウレンスキーの才能を見出し、彼に絵画を教えることを決意しました。
彼らはやがて恋人となりました。

古いユダヤ人
1893年 ブリッジマン美術館ヤウレンスキーがロシア時代に描いた初期の作品の一つです。この作品は、ヤウレンスキーがサンクトペテルブルクでヴェレフキンの個人指導を受けた時期に制作されたと考えられます。ヴェレフキンは、人物の表情や性格を捉えることの重要性を教えました。この作品では、ヤウレンスキーは老いたユダヤ人の男性の顔を写実的に描き、その目や口元に深い感情や知性を表現しています。

芸術家の弟セルゲイの肖像
1893年 オムスク美術館ロシアの軍人だった弟のセルゲイを描いています。軍服を着たセルゲイが、やや左を向いて真剣な表情を浮かべている姿が描かれています。この絵は、ヤウレンスキーが描いた数少ない写実的な肖像画の一つです。弟の表情は穏やかで落ち着いていて、兄弟間の親密さや信頼感が感じられます。
ドイツでの生活

1896年、ヴェレフキンとヤウレンスキーは、ヴェレフキンの使用人であった11歳のヘレーネ・ネスナコモフという少女を連れ、ドイツのミュンヘンに移り住みます。
ヴェレフキンは自分の画業を完全に放棄して彼の指導に専念し、彼女の芸術的野心を恋人に託しました。これは当時の「女性が芸術家として認められ難い」という時代背景があったためでした。
ヴェレフキンの父は帝政ロシア軍で将軍でした。その父の死後、彼女は多額の年金を与えられる身分となっていました。
このため、既婚者となれなかった彼女はヤウレンスキーと結婚することはありませんでしたが、献身的に彼をサポートし続けました。
私は魅力を見つけることができます。人生が終わるまで消えない魅力を集めています。 そして私は、あなたとそれを分かち合いたいです。なぜなら、私が考え、感じたいのは、世界であなただけだからです。
マリアンネ・フォン・ヴェレフキン 「ヤウレンスキーに宛てた手紙」
しかし、ヤウレンスキーはヴェレフキンの使用人であるヘレーネと愛人関係になってしまいます。それでもヴェレフキンはヤウレンスキーを支援し、スロヴェニア人の画家アントン・アツュベに彼を預けました。アツュベは光や色彩に優れた感覚を持っており、「巨匠の絵画技法」を重視していました。
ヤウレンスキーはこの画塾で大きな影響を受け、ヤウレンスキーの作品は色鮮やかで平面的なものになりました。

1902年、16歳のヘレーネは彼との間に息子アンドレアスを出産します。しかし、ヤウレンスキーはこのことを公にせず、アンドレアスは甥として扱われました。
ヤウレンスキー、ヴェレフキン、ヘレーネ、アンドレアスらは1906年にフランスを旅行し、パリと、ゴーギャンが活動した地域であるブルターニュのカランテックを訪れました。
同年、ヤウレンスキーはパリ・サローネ・ドートンヌで、バレエ興行師セルゲイ・ディアギレフが主催した新設のロシア館で10点の絵画を展示しました。
この時、ファン・ゴッホ、ゴーギャン、ポール・セザンヌ、モーリス・ド・ヴラマンクの作品を学びました。
旅行に同行していたヴェレフキンは、この頃から制作活動を再開しています。
フランスからミュンヘンに戻る途中、ジュネーブに寄り、スイスの象徴主義芸術家フェルディナント・ホドラーを訪問しています。その2年後には、ヤン・ヴェルカーデやポール・セルシエと出会い、ナビ派の作品の実践的要素や理論的要素、そして芸術の総合主義的原則を学びました。
さらに1907年にも、サロン・ドートンヌでのセザンヌの回顧展のためにヘレーネとアンドレアスとともにパリを訪れます。
この時、ヤウレンスキーはアンリ・マティスのスタジオを訪れ、そのフォービズムの作品に感銘を受けました。
その後、マルセイユ近郊で一人で風景を描いたヤウレンスキーは、対象から独立し、内的感情に基づいた色を使用するというスタイルにたどり着きました。

15歳のヘレーネ
1900年 ヴィースバーデン美術館ヴェレフキンの使用人で愛人のヘレーネをモデルにした作品です。ヤウレンスキーは生涯を通じで彼女をモデルにした作品を多く残しています。この作品では、色彩や形態が自然主義から離れていて、アツュベから受けた影響が見られます。

マリアンネ・フォン・ヴェレフキンの横顔
1905年 ラウ・プール・ル・ティエモンド財団ヤウレンスキーはマリアンネ・フォン・ヴェレフキンと29年間にわたって密接な関係にありましたが、彼女をモデルに描くことは、ほとんどありませんでした。油絵で描かれたのはたった2枚で、この作品はそのうちの1枚です。明るい色の象徴的かつ印象的な作品からは、彼が最も交流のあったドイツ表現主義よりも、ゴッホやポール・ゴーギャンの影響がうかがえます。

花瓶と水差しのある静物
1907年 ルートヴィヒ美術館フォービスムの影響を強く受けたヤウレンスキーの芸術的な思想が反映されたこの作品は、シンプルな形、物体の輪郭を示す装飾的な線、そして光り輝く色彩、特に赤の使い方はマティスを連想させます。これらの色彩は、単に色彩の生命を感じる手がかりであり、対象をとらえる為の要素として用いられています。
青騎士への参加

1908年にヤウレンスキーとヴェレフキンは、ワシリー・カンディンスキーとガブリエレ・ミュンターらと出会います。
カンディンスキーはロシア人でありながら、ドイツで芸術家として活動していて、同じ境遇であったヤウレンスキーらを自分の画塾「ファランクス」に招きました。
ヤウレンスキーは、ドイツ人画家カール・カスパーや 22歳のアレクサンダー・サチャロフなど、彼の芸術において重要な人物たちと会いました。
彼らは、色彩や形態を自由に変化させて、内面的な感情や霊的な意味を表現するという、共通の芸術的な志向を持っていました。
1909年にカンディンスキーらと共にミュンヘン新芸術家協会を結成し、ドイツの伝統的な芸術団体に対抗して、新しい芸術の展示や交流を行いました。
しかし、1911年にカンディンスキーの作品に対し、グループ内に対立が生じます。カンディンスキーは完全な抽象画を目指していましたが、他のメンバーはそれに賛成しなかったためでした。
これをきっかけに、カンディンスキーはグループから脱退しました。
1911年12月にカンディンスキーは、「青騎士」という新しいグループを結成します。
青騎士には、カンディンスキー、ミュンターやヤウレンスキー、ヴェレフキンの他にもパウル・クレーやフランツ・マルク、パブロ・ピカソ、アンリ・ルソー、エミール・ノルデなどが参加し、1911年から1912年にかけて2回の展覧会を開催しました。
彼らは、それまで当然のこととされてきた「形(フォルム)」へのこだわりを捨て、すべての芸術に共通する本質を追求することを目指していて、ドイツ表現主義の中でも、最も先鋭的なグループとして20世紀における現代芸術の重要な先駆けとなりました。

アレクサンダー・サチャロフの肖像
1909年 レンバッハハウスサチャロフはヨーロッパで最も革新的なソロダンサーの一人でした。この肖像は公演前にサチャロフがヤウレンスキーのスタジオに訪問した際に描かれた作品で、衣装を着たサチャロフは、黒い輪郭で強調され、背景は赤い衣装と対比するように緑色で荒々しく塗られています。顔は尖った形をしていて、こちらを見つめるような視線に強烈なインパクトを感じさせます。

白い羽根
1909年シュトゥットガルト州立美術館紺色のドレスは低い明度で描かれ、袖の細部が識別できません。白い羽と白い顔が浮かび上がるように強調されていて、作品全体は平面的な印象を与えます。白い手は服と似た紺色の扇子を持っているため強調されています。ジャポニスムやトゥールーズ=ロートレックの影響がうかがえます。

マノーラ
1913年チューリッヒ美術館この絵の中で描かれている人物の誇張された目と力強い視線は、見る者を直接惹きつけます。鮮やかなコントラストの色と大胆な輪郭の使用が彼女の特徴を強調します。
スイスへの亡命
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ政府は外国人を国外へ追放しました。ロシア人であったヤウレンスキー、ヴェレフキン、ヘレーネ、アンドレアスらは24時間以内にドイツを出国し、中立国のスイスへと亡命しました。
スイスへ移った彼らは、サン・プレックスで暮らしました。戦争の影響でヴェレフキンの年金は半減し、生活は困窮しました。
1916年、ヤウレンスキーのもとに、25歳年下のドイツ人女性画家ガルカ・シャイアーが尋ねてきました。
ヤウレンスキーの作品に魅せられたシャイアーは、かつてのヴェレフキンと同じように自らの制作をやめ、彼の絵を売る支援をはじめます。これにより、ヴェレフキンの役割を引き継ぐことになりました。
1918年、ヤウレンスキーは病気を患い、彼らはアスコナへ移住します。この間、シャイアーはミュンヘンで彼の広報活動を熱心に行いました。
ヤウレンスキーはアスコナで、「頭部」をモチーフにした一連のシリーズの制作を始めます。
色彩によって人間の心理や精神状態を表現することを目指し、人間の顔や頭部を極端に変形させ、色彩や形態で感情や内面を表現しようと試みました。このシリーズ以降、彼は「色彩の魔術師」と呼ばれるようになります。彼は、色彩について次のように語っています。
色は私にとって魂の言葉であり、私の内面を表現する唯一の手段である。色には私の感情や思想を具現化する力があり、色は私にとって生命そのものである。
アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー

少女の顔
1918年 アスコナ市立近代美術館アスコナに移住した後、制作された最初の「神秘的な頭」の1つです。大きなアーモンド状の目、頭の形状など、すでに学術芸術の規範から遠く離れており、フォービズムの影響が強く見られます。ヤウレンスキーは、作品の形と色を通して、自分の中にある神聖なものを示したいと述べていて、これを実現させるために様々なスタイルを試みています。

青い口
1918年 アスコナ市立近代美術館ヤウレンスキーが人間の頭部をモチーフにして描き続けた前期のシリーズの一つで、抽象的な色彩と形態で表現された顔が画面を占めています。青い口元は、ヤウレンスキーが第一次世界大戦の悲惨さや自身の健康問題に対する苦悩を象徴していると考えられます。
晩年
1921年、56歳のヤウレンスキーはヴェレフキンと別れ、ドイツのヴィースバーデンへと移り、翌年、息子アンドレアスの母親であるヘレーネと結婚しました。
この時期の作品は、抽象化が進み、幾何学的な形態や記号的な要素が増えました。また、風景や静物といった具象的なモチーフも描いています。
同時に、この時期は不遇な時期でもありました。第一次世界大戦後のヨーロッパでは、芸術市場が崩壊し、絵画制作に必要な資金や材料が不足しました。
1927年に関節リウマチを患い、1930年には麻痺の症状が悪化して、何ヶ月も寝たきりになることが多くなりました。それでも彼は、手の力が衰えていく中で、新たな画風を模索し続けました。
この頃、彼が取り組んだ作品は、抽象的な頭と実際の瞑想の間をつなぐ『抽象的な頭』シリーズです。これらの作品は、画面いっぱいに描かれた顔が左右への傾き、Uの字にあごを丸め、目を閉じているのが特徴です。
1937年以降は、車椅子を必要とし、移動は介護を必要とする状態でした。この年の12月に描いた作品『瞑想』シリーズが、彼の最後の作品となりました。その色はますます暗く、ほぼ一色になっていましたが、それにもかかわらず透明感がありました。
この年、ナチスによって「退廃芸術」として72点の作品が押収され、そのうち3点がミュンヘンで展示されました。
1938年以降、ヤウレンスキーの身体は完全に麻痺して寝たきりとなり、1941年3月15日、76歳で亡くなりました。
彼は生涯に約3000点もの絵画を制作しましたが、その多くは未発表でした。彼の死後、妻のヘレーネや息子のアンドレアスが彼の遺作を整理し、展覧会を開いたり図録を出版したりしました。
彼の作品は、ドイツ表現主義だけでなく、抽象芸術や色彩理論などにも大きな影響を与えました。

抽象的な頭:救世主の顔
1921年 個人蔵ヤウレンスキーは「神秘的な頭」または「聖人の顔」を描き始めました。彼はそれらに「Moonlight」や「Inner Look」などの詩的なタイトルを付けました。彼は「抽象的な顔」のテーマに集中しました。その外観はほぼ常に同じでしたが、それまで知られていなかった超越的な精神性の新たな側面を引き出すために、筆の使い方、色付け、描画方法が変化させました。

大瞑想
1937年ヤウレンスキー最晩年の作品です。「抽象的な頭」と比較すると、ここでは顔の輪郭がさらに縮小されており、顎の領域や髪などの描写はありません。顔と認識できる最小限の要素である、鼻、目、口の二重十字だけが描かれています。これらの作品では、表現の多様性を示しています。
ヤウレンスキーの影響
ヤウレンスキーはドイツ表現主義を代表する画家の一人として、抽象芸術や非具象芸術の発展に寄与しました。
彼の作品は、カンディンスキーやマルクと並んで、「青騎士」の精神を受け継いだものとして評価されています。彼は、色彩や形態を自由に変化させて、内面的な感情や霊的な意味を表現することを目指しました。
彼の作品は、後世の芸術家たちへ影響を与えています。
抽象表現主義やカラーフィールド・ペインティングなどのアメリカの抽象芸術を代表するマーク・ロスコやバーネット・ニューマンなどの画家は、彼の作品から色彩や形態の効果を学びました。
ロシア出身でドイツ表現主義を代表する画家の一人、アレクセイ・フォン・ヤウレンスキーは、19世紀末から20世紀前半にかけての激動の時代において、自分自身の画風を模索し発展させていきました。
彼は、色彩や形態を自由に変化させて、内面的な感情や霊的な意味を表現することを目指しました。
また、彼は多くの画家仲間や女性と関わり、刺激を受けました。カンディンスキー、ヴェレフキンと共に、青騎士のメンバーとして活躍しました。
晩年には、人間の「頭部」をモチーフにして描き続けた一連のシリーズがよく知られています。彼の作品は、ドイツ表現主義だけでなく、抽象芸術や色彩理論などにも大きな影響を与えました。