ジャン=フランソワ・ミレー
2023.07.20 ピックアップアーティスト芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。
このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

今回は、19世紀のフランスの画家で、バルビゾン派の代表的な一人とされるジャン=フランソワ・ミレーをピックアップします。
ミレーは、農民の生活を真摯に描いた作品で知られ、印象派やポスト印象派の画家にも影響を与えました。ミレーの生涯と代表作品を紹介し、彼の芸術性に迫ります。
ミレーが生きた時代
ミレーが活躍した時代は、フランスでは政治的・社会的な変動が激しく、美術界も大きな変化を迎えていました。ナポレオン1世が失脚した後は王政復古期となり、王党派や貴族階級が支配的な立場を取りました。
この時代の美術界では、アカデミズム絵画が主流でした。アカデミズム絵画とは、古典的なテーマや形式を重視し、正統的な技法や様式を守ることを美徳とする絵画です。歴史画や神話画などがこのジャンルに属します。アカデミズム絵画はサロン・ド・パリで高く評価され、政府からも注文や賞賛を受けることが多かったです。
しかし、1830年代から1840年代にかけて、アカデミズム絵画に反発する動きも出てきました。ロマン主義や写実主義と呼ばれる新しい傾向の画家たちは、古典的なテーマや形式に縛られず、自分たちの感情や現実を自由に表現しようとしました。ロマン主義の画家たちは、歴史や神話の中の個性的な人物や情景を描き、感動や衝撃を観る者に与えようとしました。
写実主義の画家たちは、現代の社会や人々の生活をありのままに描き、社会的な問題や批判を提示しようとしました。ロマン主義や写実主義の画家たちは、サロン・ド・パリでしばしば酷評されたり、入選を拒否されたりしましたが、それでも自分たちの芸術観を貫こうとしました。
ミレーの生い立ち

ジャン=フランソワ・ミレーは1814年10月4日にフランス・ノルマンディー地方のグリュシーという村で農家の長男として生まれました。父親は農家でありながらも教養があり、ラテン語や古典文学に通じていました。母親は没落した貴族の家系でした。
ミレーは幼少期から絵を描くことが好きでしたが、父親からも厳しく農業を教えられました。ミレーは長男として跡継ぎになることが期待されていましたが、18歳の時にシェルブールの画家ポール・デュムーシェルに弟子入りする許可を得ました。デュムーシェルから絵画技法だけでなく美術史や美術理論も学びました。
1835年から1837年まではシェルブールで肖像画家ラングロワ・ド・シェーヴルヴィルに師事しました。ラングロワはミレーの才能を認めて、パリのエコール・デ・ボザールに進学するための奨学金を得る手助けをしました。
1837年から1839年まではエコール・デ・ボザールで歴史画家ポール・ドラローシュに師事しましたが、ローマ賞に落選して学校を去りました。その後はパリで肖像画や神話画などを制作し、サロン・ド・パリに出品しました。1841年には最初の妻ポーリーヌと結婚しましたが、1844年にポーリーヌを結核で亡くしました。
1845年にはカトリーヌという女性と再婚し、パリで暮らしました。この頃から農民や自然に関心を持ち始め、1848年のサロン・ド・パリに出品した農民画『箕(み)をふるう人』が好評を博しました。この作品は、農民の労働を美化せずにありのままに描いたものでした。

箕(み)をふるう人
1848年 ロンドン、ナショナル・ギャラリー1848年、二月革命後に開催されたサロンに出品された作品です。働く農民の生活への姿をテーマにしたこの作品は、意に反して革命に熱狂する人々に称賛され買い上げられました。この作品は、農民画家といわれるミレーにとっての、記念すべき転機となるものだった。これ以後ミレーは、意識的に農民の生活を描くようになりました。
農民画家へ
ミレーは、この時代の美術界で活動する中で、アカデミズム絵画からロマン主義や写実主義へと変化していきました。最初は肖像画や神話画などでサロン・ド・パリに出品していましたが、1848年の2月革命以降は農民画に傾倒しました。2月革命とは、ルイ・フィリップ王が退位させられて共和政が樹立された革命です。
この革命は、フランス社会における不平等や不満を表出させるものでした。ミレーは、この革命によって農民の生活に対する関心が高まったことや、自分自身の農民出身という経歴を思い起こしたことなどから、農民画を描くようになりました。
ミレーは、農民画でサロン・ド・パリに出品し続けましたが、その作品は賛否両論を巻き起こしました。一部の評論家や観客は、ミレーの作品に農民の尊厳や美しさを見出し、高く評価しました。しかし、他方では、ミレーの作品に農民の悲惨さや反抗性を見出し、低く評価したり、政治的なメッセージだと非難したりしました。
ミレー自身は、自分の作品に政治的な意図はないと主張していましたが、当時のフランス社会では農民問題が敏感なテーマであったため、避けられない論争となりました。
バルビゾンに移住
1849年にはパリでコレラが流行したことや、政治的な支援者が失脚したことなどから、バルビゾンという村に移住しました。そこで他のバルビゾン派の画家たちと交流しながら、農民や自然を描き続けました。
1851年のサロン・ド・パリに出品した『種まく人』は、農民の悲惨な生活を訴える政治的なメッセージだと受け取られて論争を巻き起こしましたが、ミレーは自分の作品に政治的な意図はないと主張しました。
1850年代から1860年代にかけても、ミレーはサロン・ド・パリに農民画を出品し続けましたが、その作品は賛否両論を巻き起こしました。一部の評論家や観客は、ミレーの作品に農民の尊厳や美しさを見出し、高く評価しました。しかし、他方では、ミレーの作品に農民の悲惨さや反抗性を見出し、低く評価したり、政治的なメッセージだと非難したりしました。ミレー自身は、自分の作品に政治的な意図はないと主張していましたが、当時のフランス社会では農民問題が敏感なテーマであったため、避けられない論争となりました。

種まく人
1850年 ボストン美術館冬小麦の種をまく農民の姿を描いたものです。ミレーは、農民の力強さや労働の重さを表現しました。背景には夕日が沈む空や耕された畑が見えますが、農民の姿が画面の中心を占めています。この作品は、サロン・ド・パリで展示されたときに、農民の悲惨な生活を訴える政治的なメッセージだと受け取られて論争を巻き起こしましたが、ミレーは自分の作品に政治的な意図はないと主張しました。

落穂拾い
1857年 オルセー美術館小麦の収穫後に残された穂を拾う女性たちを描いたものです。ミレーは、農民の貧しさや苦労を隠さずに、その姿勢や表情に表現しました。背景には豊かな収穫物を運ぶ馬車や農場主の姿が見えますが、彼らとは対照的に、女性たちは地面に近い位置に描かれています。この作品は、サロン・ド・パリで展示されたときに、農民の悲惨さや反抗性を見出し、低く評価したり、政治的なメッセージだと非難したりする人々もいましたが、ミレーは自分の作品に政治的な意図はないと主張しました。

晩鐘
1857-1859年 オルセー美術館夕暮れ時に畑で働いている夫婦が教会の鐘の音に合わせて祈りを捧げる姿を描いたものです。ミレーは、農民の信仰心や尊厳を感動的に表現しました。背景には教会や村の風景が見えますが、夫婦の姿が画面の中心を占めています。この作品は、サロン・ド・パリで展示されたときに、農民の美しさや清らかさを見出し、高く評価する人々もいましたが、ミレーは自分の作品に感傷的な意図はないと主張しました。
晩年
1860年代後半からは体調が悪化しながらも、『四季』の連作などに取り組みました。1870年から1871年の普仏戦争とパリ・コミューンでシェルブールに疎開したことで、『四季』連作の制作は中断されましたが、1873年5月に『春』を完成させました。この作品は亡くなった親友ルソーへの鎮魂の意味を込めたものだと言われています。その後、『四季』の連作は断続的に制作を続け、1874年に『夏』と『秋』を完成させましたが『冬』は未完成のままでした。
1874年、政府からパリのパンテオンの壁画装飾の依頼を受けますが、彼の健康状態は急激に悪化します。
1875年1月3日、妻カトリーヌと教会で結婚式を挙げています。そして、1月20日、ミレーはバルビゾンで亡くなりました。

羊飼いの少女
1864年 オルセー美術館赤いフードとウールのケープを身に着けた若い羊飼いの娘が、羊の群れの前で編み物をしながら立っています。羊の群れは波打つ光のパッチワークを形成し、夕日の光を反射していて落ち着いた静けさが描かれています。この作品は、理想化された田舎の生活を描いた絵画を好むパリの中産階級によって特に高く評価されました。

グレヴィルの断崖
1871年 大原美術館バリビゾンはパリから約 60 キロ南、フォンテーヌブローの森の郊外にあります。肥沃な農地と森林が広がる地域です。ここは、ミレーが「落穂拾い」や「アンジェラス」などの有名な絵画を描いた場所です。グレヴィルの断崖は彼の故郷グリュシーの近くにあります。彼は晩年まで強い郷愁を込めて何度も何度もこの崖を描き続けた。太陽の光あふれる自然美を緻密なタッチで描いたパステル画です。

春
1868-1873年 オルセー美術館この絵は、ミレーが晩年に描いた四季をテーマにした作品の一部です。1868年3月、ミレーと同じくバルビゾン派の画家テオドール・ルソーのパトロンであったフレデリック・アルトマンによって依頼され、制作されました。ミレーは1875年に没するまで断続的に制作を続け、1873年5月に完成させました。
ミレーの影響
ミレーは、農民や自然を描いた作品で、リアリズムの画家として高い評価を得ました。
彼の作品は、後の画家たちにも大きな影響を与えました。特に、ミレーの作品を敬愛したフィンセント・ファン・ゴッホは、ミレーの『種まく人』や『晩鐘』などを自分のスタイルで模写したり、ミレーの色彩や構図に学んだりしました。また、印象派の画家たちも、ミレーの自然観や光の表現に刺激を受けました。クロード・モネやカミーユ・ピサロなどは、バルビゾン派の画家たちと交流しながら、自然の中で絵を描くことを学びました。さらに、ポスト印象派のジョルジュ・スーラも、ミレーの農民画に影響されて、点描法で農民の姿を描きました。
ミレーの作品は、美術だけでなく、文学や音楽などにも影響を与えました。
マーク・トウェインは、ミレーの『晩鐘』に触発されて小説『ジャン=フランソワ・ミレー伝』を書きました。サルバドール・ダリは、ミレーの『晩鐘』をパロディ化した絵画『アトミック・ルネッサンス』を制作しました。エドガー・ドガは、ミレーのパステル画に感銘を受けて自分もパステル画を描き始めました。ジュール・マスネは、ミレーの『落穂拾い』に基づいてオペラ『ラ・ナヴァレーズ』を作曲しました。
フランスの画家ジャン=フランソワ・ミレーは農民や自然をリアリズム的に描き、当時の社会問題にも関わりました。
彼の作品は多くの論争を引き起こしましたが、同時に多くの賞賛も受けました。彼は後世の画家たちにも大きな影響を与えました。彼は農民出身でありながら、芸術家として高い地位を得ることができた稀有な人物です。
ミレーの作品は、今でも世界中の美術館で観ることができます。彼の描いた農民や自然の姿は、私たちに人間の尊厳や生命の美しさを教えてくれます。彼は、芸術の歴史において重要な役割を果たした画家です。