オノレ・ドーミエ
2023.10.04 ピックアップアーティスト芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。
このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

今回は、19世紀のフランスを代表する画家・版画家オノレ=ヴィクトラン・ドーミエをピックアップします。
ドーミエは、政治や社会を風刺した石版画や、貧しい庶民生活を写実的に描いた油彩画で有名です。彼の作品は、当時のフランスの現実に鋭いまなざしを向けるとともに、人間の尊厳や感情を表現する力に満ちています。ドーミエの活躍した時代背景と、彼の生涯と代表作品について紹介します。
ドーミエとその時代
ドーミエが生まれた1808年は、ナポレオン戦争の最中でした。
フランスはヨーロッパの大国として拡大を続けていましたが、1815年にナポレオンが敗れて亡命し、王政復古が行われました。しかし、王政復古期のフランスは、旧来の封建的な体制に戻ろうとする王や貴族と、自由や平等を求める市民やブルジョワジーとの対立が深まっていきました。
1830年には七月革命が起こり、ルイ・フィリップが国王に即位しました。
ルイ・フィリップは市民王と呼ばれ、ブルジョワジーの利益を優先する政治を行いましたが、やがて彼も権力に固執し、市民の不満を高めました。
1848年に二月革命が起こり、ルイ・フィリップは退位しました。
この革命で第二共和政が成立しましたが、その後ナポレオン3世がクーデターを起こして皇帝に即位しました。
ナポレオン3世は第二帝政を樹立し、近代化や拡張主義を推進しました。
1870年には普仏戦争で敗北し、パリでは市民による反乱が起こりました。
これがパリ・コミューンと呼ばれる歴史的な出来事です。
パリ・コミューンは1871年に鎮圧されましたが、その後もフランスは第三共和制として政治的な混乱や社会的な対立を抱えることになります。
ドーミエが生きた時代は、フランスの歴史上でも特に激動の時代でした。王政から共和制へと変化する中で、市民や労働者たちは自由や平等や正義を求めて闘いましたが、同時に貧困や不平等や抑圧に苦しみました。
また、産業革命や都市化によって、社会や文化も大きく変化しました。
この時代のフランスでは、新聞や雑誌などのジャーナリズムが発展し、政治や社会への批判や風刺が盛んになりました。
また、美術界でもロマン主義や印象派などの新しい芸術運動が起こり、神話や歴史ではなく、現代の風俗や自然を描く画家たちが台頭しました。
ドーミエは、この時代のフランスの現実に対して、独自の芸術的な表現で応えた画家の一人です。
ドーミエの生い立ち

ドーミエは1808年2月26日にフランス南部の港町マルセイユで生まれました。
父親はガラス職人であり、文学趣味の強い人物でした。父親は詩人として身を立てるために1814年に家族を置いてパリに赴きました。
ドーミエは8歳の時に母親と兄弟とともに父親のもとにパリに移り住みました。
一家の暮らしは貧しく、ドーミエは少年時代から弁護士の使い走りや書店の店員として働きました。
14歳の時にアレクサンドル・ルノワールという画家・彫刻家に師事して、ティツィアーノやルーベンスの技法を学びました。
また有名な私塾・アカデミー・シュイスにも通っていました。さらに1823年頃にはベリアールという職人から、その当時発明されたばかりだった最新技術である石版画(リトグラフ)の技法を学びました。
版画家として
19世紀前半のフランスはジャーナリズムの勢いが増しており、新聞や雑誌などのニーズは高まっていました。しかし、文字の読み書きや文章を理解できる人が多くない時代であったため、挿絵入り新聞の需要は高まっていました。
1829年、ドーミエは風刺画挿絵入りの新聞「ラ・カリカチュール」や「ル・シャリヴァリ」を創刊していたシャルル・フィリポンという人物と出会いました。
フィリポンは版画家としてのドーミエの才能を評価し、1830年に23歳のドーミエを採用しました。
当時のフランスは七月革命で即位した国王ルイ・フィリップの治世下にありましたが、ドーミエは国王や政治家を風刺した版画で人気を博しました。
『トランスノナン街、1834年4月15日』では、国王が制定した反民主的な法律に抗議する市民を国民衛兵が虐殺した事件を描き、人々に衝撃を与えました。
フィリポンは、1830年に別の風刺紙「ラ・カリカチュール」を創刊し、ドーミエをスタッフに迎えます。
この新聞には、若かりしオノレ・ド・バルザックも文学編集者として参加していました。
バルザックはドーミエについて「この男はミケランジェロの血を引いている」と述べたと言われています。

トランスノナン街、1834年4月15日
1834年パリの文字通りトランスノナン街で起きた悲惨な事件を題材としています。パリで労働者たちの暴動が起こり、これに過剰反応した兵士たちが無関係な住民の部屋に乱入し抵抗する父親を殺害しました。倒れた父親の重みで赤ん坊も押しつぶされています。ドーミエはこの惨劇を描き、政府の傲慢な対応を世間に広げました。
摘発と投獄
やがて、ドーミエの風刺画は当局から目をつけられるようになります。
1831年には国王ルイ・フィリップを巨人ガルガンチュアになぞらえて描いた作品『ガルガンチュア』が発禁処分となりました。
この作品では国王が市民たちのお金を飲み込んでお腹を膨らませている様子が描かれていました。ドーミエはこの作品で王権への冒涜罪に問われて逮捕され、「政府への憎悪と軽蔑を煽り、王を侮辱した」として告発され、6か月の禁固刑と500フランの罰金が科されました。
同年後半、風刺画『ペトー王の宮廷』が発表され、彼は1832年8月に再び逮捕され、6か月間の禁固刑を受けます。
彼は、釈放後も風刺画家として活動を続けました。
政治家や貴族だけでなく、裁判所や劇場など社会のさまざまな場面で起こる滑稽な出来事や人間模様を描きました。生涯に約4000点もの風刺画を残しました。
ガルガンチュアの発表と彼の収監により、ドーミエは悪評を得ましたが、同時に一部の市民からは大きな人気を得ました。
1834年、君主制への批判や風刺が制限され、これらの雑誌の発行は検閲が入るようになりました。
これにより、ドーミエの版画の作風は変わり始め、直接的な政治的批判から社会や富裕層に対して軽快でユーモラスな風刺画を制作するようになりました。

ガルガンチュア
1831年逮捕されたきっかけとなった風刺画です。フランス国王ルイ・フィリップを巨人ガルガンチュアになぞらえて描いています。国王は市民たちのお金を飲み込んでお腹を膨らませており、その下では貧しい人々が苦しんでいます。この金権腐敗を風刺したリトグラフは、王権への強烈な批判として当局から発禁処分となりました。新聞の発行責任者シャルル・フィリポンとドーミエは、1832年2月に裁判を受け、国王を侮辱した罪で禁固6か月、罰金300フランの刑に処せられました。

ペトー王の宮廷
1832年「ぺトー王」は劇の登場人物で、「権威のない王」を意味する俗称です。王に忠誠を誓うために列をなす大臣の様子が描かれています。玉座の脇に二人の衛兵が立っており、玉座から足だけ覗かせているのがぺトー(ルイ・フィリップに対する風刺)王です。腐敗した大臣たちの礼儀正しさと、勲章や特権を約束しただけで大臣たちを自分の大義に結集させることができない国王の権威の欠如を描いています。
モデルとしての彫刻
あまり知られていませんが、ドーミエは版画や油彩だけでなく、多数の彫刻も制作しました。
『ガルガンチュア』での逮捕された時期には、最初の彫刻である『中流階級の著名人』の制作を開始しました。
粘土や蝋で制作されたフランス国会議員の胸像36体を残しましたが、彼の死後に原型のままで発見されました。
これらの胸像のいくつかは後にブロンズで鋳造され、現在はオルセー美術館に展示されています。
彼の彫刻は、表現主義的なタッチで人物の特徴や性格を捉えており、後世の彫刻家に影響を与えました。
ドーミエは彫刻を風刺画や絵画のモデルとして使っていたと考えられています。
顔や人体の特徴を彫刻から描くスタイルは、アレクサンドル・ルノワールから学んだもので、それは画家としてのドーミエの成長にとって不可欠でした。

Célébrités du Juste Milieu (中流階級の著名人)
1832 - 1835年 オルセー美術館モデル化された未加工の土で作られた36体(現存しているのが36体で正確には不明)の胸像のシリーズで、ドーミエは、7月王政初期の主要な政治家を風刺するこの一連の胸像を制作し、それを元に版画を制作しました。これらの作品は風刺画のモデルとして使っていたと考えられています。
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- アントワーヌ・モーリス・アポリネール・ダルグー(1782-1858)
- クロード・バイリオ(1771-1836)
- フェリックス・バルト(1796-1863)
- ジャン・オーギュスト・シュヴァンディエ・ド・ヴァルドローム(1781-1865)
- ローラン・キュナン=グリデーヌ(1778-1859)
- ベンジャミン・デレサート(1773-1847)
- ジャック・アントワーヌ・アドリアン・デロール(1773-1846)
- イッポリト アブラハム デュボワ(1794-1863)
- アンドレ・デュパン(1783-1865)
- シャルル=ギョーム・エティエンヌ(1778-1845)
- アルフレッド・ド・ファルー(1811-1886)
- ジャン=マリー・フルシャール(1788-1872)
- ジャン=クロード・フルシロン(1774-1859)
- ジョアヒム・アントワーヌ・ジョゼフ・ゴードリー (1790-1875)
- シャルル・レナード・ガロワ(1789-1851)
- オーギュスト・ヴィクトル・イポリット・ガヌロン(1792-1847)
- フランソワ・ギゾー(1787-1874)
- ジャン=マリー・アルレ(1765-1838)
- オーギュスト・イラリオン・ド・ケラトリ(1769-1859)
- シャルル・マロ・ド・ラメス(1752-1832)
- アレクサンドル・ルコント(1778年頃~?)
- ジャック・ルフェーブル(1777-1856)
- フランソワ・ドミニク・ド・レイノー・ド・モンロジエ(1755-1838)
- アントワーヌ・オディエ(1766-1853)
- アレクサンドル・シモン・パタイユ(1784-1857)
- ジャン=シャルル・ペルシル(1785-1879)
- チャールズ・フィリポン(1800-1862)
- ジョゼフ・デ・ポデナス(1782-1851)
- ヴィクトル・プリュネル(1777-1853)
- ピエール=ポール・ロワイエ=コラール(1763-1845)
- ホレス・セバスティアーニ(1775-1851)
- ジャン・ヴァトゥー(1791-1848)
- ジャン=ポン=ギョーム・ヴィエネ(1777-1868)
- シャルル・ルイ・ユゲ・ド・スモンヴィル侯爵(1799-1805)
- イッポリット=ルシアン=ジョセフ・ルーカス(1807-1878)
- ピエール=ルイ・ロデレール伯爵(1754-1835)

ラタポイル
1851年 オルセー美術館ラタポイルとは「皮を剥いだネズミ」という意味で、軍国主義、特にナポレオン帝国主義の支持者を表すよく知られた用語でした。誇張された曲線的な姿勢、しわくちゃのズボンとフロックコートに加えて、突き出された右足、高慢にはられた胸。この種の人間の人格と、それに対するドーミエの批判的な視点がうかがえます。
油彩画家として
ドーミエは版画家として有名でしたが、油彩画家としても優れた作品を残しました。
1840年代から油彩画を本格的に始めましたが、生前にはほとんど公開されませんでした。
ドーミエは自分の作品を売ることに興味がなく、友人や知人にプレゼントしたり、自宅に保管していました。
周囲の人々や風景を題材にし、当時のパリ市民の日常生活や感情を大胆な構図と筆使いで表現したもので、『洗濯女』などがあります。
これらの作品は、印象派や表現主義などの後の芸術運動に大きな影響を与えました。
1853年以降、夏の数か月をバルモンドワとバルビゾンで過ごすことが多くなり、カミーユ・コロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ジャン=フランシス・ミレー、テオドール・ルソーなどのバルビゾン派の画家たちとの交流を深めるようになりました。
1850年代後半になると、彼の風刺作品は人気が薄れ、次第にドーミエは風刺画の依頼が減っていきました。ドーミエは経済的に困難な時期でしたが、逆に絵画を制作する時間が増えていきました。
彼はサロンへ定期的に出品しましたが、当時のサロンは2年または3年に一度しか開催されませんでした。

共和国
1848年 オルセー美術館フランス第二共和政を代表する公式絵画を決定するコンテストのために作られたスケッチです。これは共和国を代表する半裸の女性を表し、右手で誇らしげにフランスの三色旗を持っています。大柄で筋肉質な女性は、同じく筋肉質の幼児2人に授乳していて、3人目の子供は足元に座って読書に集中しています。強い共和国という理想を表現していると言われています。

洗濯女
1863年 オルセー美術館貧しい庶民の生活を描いた油彩画の一つです。洗濯する女の姿が力強く描かれています。彼女は重い洗濯物を持ち上げていますが、その表情は悲壮ではなく、むしろ誇りや自信に満ちています。この作品は労働者階級の尊厳を讃えるものとして評価されています。

プリント販売店の外
1860 - 1863年 ダラス美術館街頭のお店に展示された版画は通行人の注目を集めています。熱心に見つめる人もいれば、穏やかな好奇心を持って見つめる人もいます。興味深そうに通り過ぎる少年、別の少年は作品を慎重に物色しています。この小さな絵の中で、ドーミエは、パリの人々のさまざまな興味の行動を生き生きと表現しています。
晩年
ドーミエは1858年に重篤な病気にかかり、1865年の夏に療養のためパリの北にあるヴァルモンドワへ移動し、小さなコテージを借りて、そこで生涯を過ごしました。
彼の友人カミーユ・コローは、ドーミエが借りていた家を買い上げドーミエにプレゼントしています。
ドーミエは1872年頃から眼の病気を患い、やがて失明に至ります。
しかし、彼は友人たちから支援を受けて暮らし、制作を続けました。記憶や想像力で絵画を描き続けました。
晩年、ドーミエは『ドン・キホーテ』をテーマとした多くの絵画を制作しています。
権威の腐敗と社会の欺瞞を非難し続けたドーミエは、おそらく、もう一人の孤独な理想主義者であるドン・キホーテを同一視したのかもしれません。
パリから遠く離れた質素な生活、貧困と借金、視力の低下の中で生活している中、彼の業績は再評価されるようになります。
第二帝政はドーミエにレジオンドヌール勲章を授与しようとしますが、彼は政治的思想と矛盾しているとしてこれを辞退します。
フランス第三共和国は再びドーミエにレジオンドヌール勲章を提供しましたが、これも辞退しました。
1878年に、ギャラリー・デュラン=リュエルで彼の作品の初の回顧展が開催され、ヴィクトル・ユーゴーが議長を務める委員会のもとで、94点の作品と200点の図面が展示されました。
この回顧展は好評となり、ドーミエは偉大な画家として認識されるようになりました。
ドーミエは1879年2月10日に70歳で亡くなりました。
1年後、生涯独身であった彼の遺体は、パリのペール・ラシェーズ墓地に移され、友人であるカミーユ・コローとシャルル=フランソワ・ドービニーと共に眠っています。
彼の死後、友人たちは彼の遺品や作品を整理しようとしましたが、その数は膨大で、油彩画だけでも300点以上が発見されました。
その多くは未完成であり、ドーミエが生涯にわたって追求した芸術の探求の跡が残されていました。

山中のドン・キホーテ
1850年 石橋財団コレクションドーミエは単純化された緩やかな筆致で、馬に乗った二人の男が社会から孤立している様子を描いています。権威の腐敗と社会の欺瞞を非難し続けたドーミエは、おそらく、もう一人の孤独な理想主義者であるドン・キホーテを同一視したのかもしれません。

三等列車
1865年 メトロポリタン美術館三等鉄道車両に乗った労働者階級の旅行者を描いています。三等鉄道車両は窮屈で汚れていて、硬い木製のベンチが置かれたオープンコンパートメントで、二等や一等の切符を買う余裕のない人々でいっぱいでした。描かれた人物は、ジャン=フランソワ・ミレーの影響を受けて、農民を対象としたものと言われています。

ドン・キホーテ
1868年 ノイエ ピナコテーク少ない色数で大きめの筆のみで描かれているため、未完成の印象を与えます。彼の顔は黄土色の染みに置き換えられ、目、鼻、ひげは見る者の想像に委ねられています。騎手と馬の姿は風刺画であり、その外観は奇妙な雰囲気を醸し出しています。

ドンキホーテとサンチョパンザ
1868 – 1872年 コートールド美術館ドーミエが晩年に描いた「ドン・キホーテ」です。このシーンは、ドン・キホーテの盲目的な理想主義と彼の使用人であるサンチョ・パンサの常識が対比される、原作のユーモアと悲劇的な高貴さを保っています。ドーミエは、馬とロバを使ってこれらの異なる性格を表現しています。ドーミエは失いつつある視力の中で、暗いトーンとハイライトを使いハイコントラストで表現しています。
ドーミエの影響
ドーミエは、風刺画家としてだけでなく、油彩画家としても後世の芸術家に大きな影響を与えました。彼の作品は、写実主義や印象派などの後の芸術運動に先駆けて、現代の風俗や自然を描くことに挑戦したものでした。
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、ドーミエの風刺版画や劇場のシーンを描いた作品に感銘を受け、自らもパリの歓楽街やサーカスなどを題材にしました。
フィンセント・ファン・ゴッホは、ドーミエの油彩画や版画を模写して、人間の苦悩や希望、生活の喜びや悲しみなどを表現する力や、光と影の効果的な使い方などを学んでいます。
ポール・セザンヌは、ドーミエの油彩画に感動し、自らも購入し、色彩や形態の単純化や変形、空間構成や遠近法の自由な扱いなどを学びました。
印象派の他にも、ジョルジュ・ルオーや、パブロ・ピカソなど、多くの画家に影響を与えました。
オノレ・ドーミエは、19世紀のフランスを代表する画家・版画家でした。
政治や社会を風刺した石版画で有名ですが、それだけでなく、貧しい庶民生活を写実的に描いた油彩画でも優れた作品を残しました。
生涯に約4000点もの風刺画と約300点もの油彩画を残しましたが、その多くは死後に発見されました。
彼の作品は、当時のフランスの現実に鋭いまなざしを向けるとともに、人間の感情や尊厳を表現する力に満ちています。彼は後世の芸術家に大きな影響を与えました。