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ドミニク・アングル

2023.09.27 ピックアップアーティスト

芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

ドミニク・アングル

今回は、新古典主義を代表するフランスの画家、ドミニク・アングルをピックアップします。

アングルは、19世紀前半に活躍し、ダヴィッドから新古典主義を継承しましたが、同時代のロマン主義や印象派に対抗して、独自の芸術性を追求しました。その作品は、正確なデッサンと構図、平坦な色彩とテクスチャー、古典的な美しさとエキゾチズムを兼ね備えています。アングルは、自分の作風にこだわり続けたために、批評家や同僚からしばしば非難されましたが、後世の画家たちに多大な影響を与えました。
今回は、アングルの生涯と代表作品を通して、その芸術観や人間性に迫ってみたいと思います。

アングルとその背景

アングルが活躍した時代は、フランスにとって激動の時代でした。1789年に始まったフランス革命は、王政を打倒し、共和制を樹立しましたが、その後も内乱や外敵の侵攻に苦しみました。
1799年にはナポレオン・ボナパルトがクーデターで権力を掌握し、1804年には皇帝に即位しました。ナポレオンはヨーロッパ各地に戦争を仕掛けて領土を拡大しましたが、1815年のワーテルローの戦いで敗れて失脚しました。
その後、王政復古が行われましたが、1830年と1848年にも革命が起こりました。1848年の革命では第二共和制が成立しましたが、1852年にはナポレオン3世が皇帝に即位しました。ナポレオン3世は第二帝政を築きましたが、1870年の普仏戦争で敗北し、第三共和制が成立しました。

このように政治的に不安定な時代でしたが、文化的には華やかな時代でもありました。フランス革命以降のフランス美術は、新古典主義とロマン主義という二つの大きな流れに分かれました。
新古典主義は、古代ギリシャやローマの芸術や文化を模範として尊重し、理性的で厳格な作風を志向しました。
ロマン主義は、個人の感情や想像力を重視し、自由で情熱的な作風を追求しました。
これらの流れはしばしば対立することもありましたが、互いに刺激しあうこともありました。また、印象派や写実主義などの新しい芸術運動も登場しました。これらの運動は伝統的な美術界から排除されることもありましたが、独自の展覧会や批評家の支持を得て発展しました。

アングル生い立ち

ドミニク・アングル
ドミニク・アングル

ドミニク・アングルは1780年8月29日、フランス南西部のモントーバンに生まれました。父はジャン=マリー=ジョセフ・アングルといい、画家や彫刻家など多彩な才能を持つ人物でした。母はアンヌ・ムレといい、父の助手を務めていました。
アングルは幼少期から父から絵画や音楽の手ほどきを受けました。11歳のときにトゥールーズの美術アカデミーに入学し、17歳のときにパリに出て、『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』で知られる、新古典主義の巨匠ジャック=ルイ・ダヴィッドのアトリエに入りました。
ダヴィッドはアングルの才能を認めて厳しく指導しましたが、アングルはダヴィッドの作風に満足せず、絵画における最大の構成要素はデッサンであると考え、色彩や明暗、構図よりも形態を重視しました。また、ラファエロティツィアーノなどの古典的な巨匠たちに深く傾倒しました。

ローマ賞とイタリア留学

1801年、21歳のアングルは『アキレウスの陣営を訪れるアガメムノンの使者たち』でローマ賞を受賞しました。
ローマ賞は若手画家の登竜門であり、受賞者には国費でイタリア留学する権利が与えられました。しかし、当時のフランスはナポレオン戦争の真っ最中であり、政治的・経済的に困難な状況でした。
そのため、アングルは留学が延期されることになりました。その間、アングルはナポレオンやその家族の肖像画を描いたり、ダヴィッドの助手として仕事をしたりして生計を立てました。アングルはナポレオン政権下で官営の美術展であるサロンに出品しましたが、その作品は批評家や観衆から酷評されることが多くありました。

アキレウスの陣営を訪れるアガメムノンの使者たち

アキレウスの陣営を訪れるアガメムノンの使者たち

1801年 パリ国立高等美術学校

新古典主義の規範に従って描かれたこの作品は、ローマ賞を受賞した作品であり、トロイア戦争の英雄アキレウスと王アガメムノンとの対立を描いています。琴を弾いているのがアキレウス。その隣に立っているのが親友のパトロクロス。赤いマントを着ているのがオデュッセウスです。アングルはローマ賞の受賞でイタリア留学の権利を手に入れました。

玉座のナポレオン

玉座のナポレオン

1806年 オテル・デ・ザンヴァリッド

戴冠式での衣装を着た皇帝ナポレオンが、象牙の玉で飾られた肘掛けのある円形の背もたれを持つ玉座に座っている様子が描かれています。右手にはカール大帝の「正義の手」の笏を持ち、彼の頭には、ジュリアス・シーザーが身に着けていたものに似た金色の月桂冠があります。レジオン・ドヌール勲章の大襟の下にオコジョの頭巾をかぶり、金の刺繍が施されたサテンのチュニックと、金のミツバチで飾られたオコジョの裏地が付いた紫色のベルベットのマントを着ています。

イタリア滞在

1806年にようやくローマへ出発することができたアングルは、そこでミケランジェロラファエロなどの古典的な作品を研究しました。
また、『スフィンクスの謎を解くオイディプス』や『浴女』などの作品を制作し、フランス美術アカデミーに送付しました。しかし、これらの作品はフランスではデッサンや幾何学的な形態が不自然だと批判されることになります。
アングルは自分の作風が理解されないことに苦しみましたが、自分の信念を曲げることはありませんでした。

母国フランスで自分の作品を認められないままのアングルでしたが、精力的に制作を続け、イタリアで徐々に支持を得るようになります。肖像画などの注文も増えてきた1813年、アングルはイタリア滞在中に描いた肖像画のモデルであったイタリア人女性マドレーヌ・シャペルと結婚しました。その後も彼はイタリアに留まり続け、多くの代表作を描きました。
こうして1814年、アングルの裸婦画の傑作『グランド・オダリスク』が制作されます。
この作品では、東洋的な雰囲気の中で横たわる裸婦を描いていますが、その身体は不自然に長く伸ばされています。このような解剖学的に不正確と言える描写は、モデルの魅力を引き出すために意図的なものであり、古典的な美しさと当時の東洋趣味やエキゾチズムを表現するためのものでした。
ところが、この絵もまた、当時のフランスで批判されることになりました。

1820年、アングルはローマを離れ、フィレンツェで活動を始めます。
この間も肖像画を描きつつ、母国フランスのサロンへも出品していましたが、その作品は新古典主義の規範に従わないとして、批判されることが多く、認められることはありませんでした。アングルは自分の作風に自信を持っていましたが、同時に孤独や不安を感じることもありました。
1824年にはパリに戻りますが、その年のサロンでは、印象派の先駆者となるエドゥアール・マネクロード・モネなどの新しい画家たちが注目を集めました。アングルは彼らの作品を見て、自分の作風が時代遅れになっていると感じるようになりました。

浴女

浴女

1808年 ルーヴル美術館

画面中央やや右側へ配される頭にターバン風頭巾を着けた浴女は、寝具に腰掛け一息をつくような自然体の様子で背後から描かれています。皺ひとつよらない理想化された肌の表現や、全体的に丸みを帯びた女性らしい肉感とふくらみの描写は、古代の彫刻のような完全な形状的の美しさと自然な姿勢を表現しています。

ユピテルとテティス

ユピテルとテティス

1811年 グルノーブル美術館

神々の王ユピテルと海の女神テティスの関係を描いています。この作品は非常に大胆な構図と色彩で描かれています。ユピテルは両腕と脚をキャンバス上に大きく広げ、正面を向いて描かれ、その衣装と肉体の色は足元の大理石の色を反映しています。対照的に、テティスは官能的な曲線で表現され、息子の運命を掌握している残酷な神の慈悲に嘆願する様子が描かれています。

グランド・オダリスク

グランド・オダリスク

1814年 ルーヴル美術館

アングルは、後ろから見た歪んだプロポーションで気だるいポーズをとる側室を描いています。小さな頭、細長い手足、クールな配色はすべて、パルミジャニーノなどのマニエリスム主義者からの影響を明らかにしています。パルミジャニーノの首の長い聖母は、解剖学的歪みでも有名でした。東洋的な雰囲気の中で横たわる裸婦を描いている。古典的な美しさとエキゾチズムを表現するために、あえて解剖学的な整合性を無視し、余計なシワなどを省略して美の表現を優先しています。

パリへ帰国、再びイタリアへ

1824年、アングルはフランスに帰国し、サロンに『ルイ13世の誓願』を出品しました。この作品はラファエロの『システィーナの聖母』から影響を受けたと言われています。
特にマリアやキリストの顔やポーズはラファエロの作品と似ています。この絵は当時のサロンで大絶賛され、ついにアングルは母国で認められ、ダヴィッドの後継者として新古典主義の指導者と見なされるようになりました。

しかし、この頃から台頭してきたロマン主義という新しい芸術運動と対立することになります。ロマン主義は感情や想像力を重視し、自由な筆触で色彩豊かに描く傾向がありました。
その代表的な存在であったドラクロワとアングルは互いに批判し合いました。ドラクロワはアングルを「冷たくて硬い」と評し、アングルはドラクロワを「無秩序で不完全」と評しました

1825年、アングルはレジオンドヌール勲章を受けます。また、美術アカデミー会員にも推されました。彼はパリで多くの肖像画や歴史画を描きましたが、その中でも特に有名なものが『ホメロス礼賛』です。この絵は1827年に描かれたもので、古代ギリシャの詩人ホメロスが周囲から賞賛されるという場面です。周囲にはソクラテスやプラトンなどの哲学者や、ミケランジェロラファエロなどの画家が描かれています。この絵はアングル自身が最も気に入っていた作品だと言われています。

1834年、54歳となったアングルは再びローマへ渡ります。彼はそこでフランス・アカデミーの院長に就任しました。
彼はこの地で多くの肖像画や宗教画を描きました。この時期に描かれた作品は、アングルの独自の美学がより顕著になったものでした。アングルは女性の裸体を理想化し、不自然なほどに長い背中や首、手足を描きました。これらの作品は当時の観衆からは奇怪と見なされましたが、後に印象派やポスト印象派の画家たちに影響を与えました。

ルイ13世の誓願

ルイ13世の誓願

1820 - 1824年 モントーバン大聖堂

故郷モントーバンのモントーバン大聖堂のために制作した祭壇画です。主題はフランス王国ブルボン王朝の第3代国王ルイ14世の誕生にまつわるフランスの故事から取られていて、貧困に苦しんでいたフィレンツェ時代のアングルが4年の年月をかけて制作し、1824年のサロンに出品しました。本作品は、ロマン主義の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワのサロン出品作『キオス島の虐殺』に対抗する新古典主義の大作として絶賛され、アングルに数々の社会的成功をもたらしました。

ホメロス礼賛

ホメロス礼賛

1827年 ルーヴル美術館

ホメロスがギリシア、ローマ、ルネサンス、近代の大家たちから崇敬されている場面で、勝利の女神から月桂冠が授けられています。ホメロスの周りには、歴史上の偉大な詩人、芸術家、哲学者が時代を問わず描かれています。アングルはラファエロとミケランジェロがこれらの人物と肩を並べるに値すると考え、2人の姿も描いています。

晩年

1841年、61歳のアングルはパリへ帰国しました。
その年のサロンに出品した『シャルル7世の戴冠式でのジャンヌ・ダルク』が大きな反響を呼びました。この絵は歴史的な場面で、フランス王シャルル7世がジャンヌ・ダルクの助けを得てランス大聖堂で戴冠するというものです。アングルはこの絵にダヴィッドやラファエロなどの古典的な要素を取り入れました。この絵は新古典主義の傑作として称賛されました。

1855年、アングルはパリ万国博覧会において大回顧展が開催されました。彼はその際に自分の作品を選んで展示しました。彼は自分の作品を「歴史画」「肖像画」「風俗画」「宗教画」などに分類し、自分の作品が「正確なデッサン」と「色彩感覚」によって成り立っていると説明しました。
この頃のアングルはフランスでも押しも押されもせぬ巨匠となっていて、多くの弟子や追随者を育て、自分の芸術観を伝えました。しかし、アングルは自分の作品が模倣されることを嫌い、独創性を重んじました。
1862年、アングルは82歳で『トルコ風呂』を描きました。この絵は円形の画面に多数の裸婦が横たわっているというものです。裸婦たちは不自然に長く伸ばされた体や背中を見せており、退廃的で挑発的な雰囲気を醸し出しています。この絵は当時の東洋趣味やエキゾチズムを反映したものでした。

1867年1月14日、アングルはパリで亡くなりました。彼は86歳でした。彼は生涯に約500点の絵画を制作しましたが、その多くは現在パリのルーヴル美術館やオルセー美術館などに展示されています。

シャルル7世の戴冠式でのジャンヌダルク

シャルル7世の戴冠式でのジャンヌダルク

1841年 ルーヴル美術館

アングルの師ジャック=ルイ・ダヴィッドのスタイルと吟遊詩人のスタイルを融合させたものです。このシーンは、環境光、豪華な装飾、豊かな色彩によって特徴付けられます。アングルは制作にあたってヌードモデルを使用して下絵を描き、その後服や鎧を追加して加筆しました。ジャンヌダルクの後ろには3人の小姓、修道士ジャン・パクレル、そして使用人がいますが、これはアングル自身の姿と言われています。

泉

1856年 オルセー美術館

岩の隙間の間に直立し、水が流れる水差しを手に持った裸婦が描かれています。彼女は水源または泉を表しており、泉は古典文学ではミューズにとって神聖であり、詩的インスピレーションの源として表されています。女性は「花を摘もうとする男性に対して脆弱」な2つの花の間に立っており、無秩序、再生、エクスタシーの神ディオニュソスの植物であるツタに囲まれています。彼女が注ぎ出す水は、川が境界線を示し、その境界線を渡ることが象徴的に重要であるように、彼女を鑑賞者から切り離します。

トルコ風呂

トルコ風呂

1863年 オルセー美術館

円形のキャンバスに多数の裸婦を描いています。人物はほぼ抽象的で「細く曲がりくねった」形をしており、骨格が欠けているように見える部分もあります。円形の構図を考慮したバランスで配置され、曲線的な配置が絵画のエロティシズムを高めています。花瓶、流水、果物、宝石、そして淡い白からピンク、アイボリー、ライトグレーまでの淡い色彩を使用することで「懲罰的な冷たさ」を表現しています。

アングルの影響

アングルは生前には批判されることが多かった画家でしたが、死後にはその芸術性が高く評価されるようになりました。彼の作品は、印象派ポスト印象派シュルレアリスムなどの芸術運動に多大な影響を与えました。
ポール・セザンヌピカソなどの画家たちは、アングルの作品から多くのインスピレーションを得ました。セザンヌはアングルの『グランド・オダリスク』を模写し、その色彩や構図に感銘を受けました。
ピカソはアングルの『トルコ風呂』を参考にして『アヴィニョンの娘たち』を制作しました。この作品はキュビズムの嚆矢となりました。


今回は、新古典主義を代表するフランスの画家、ドミニク・アングルについて紹介しました。アングルは、古典的な美しさとエキゾチズムを兼ね備えた作品を制作しましたが、その作風は当時の美術界から理解されなかったばかりか、嘲笑されることもありました。

しかし、アングルは自分の芸術観に貫き通しました。アングルの作品は、印象派やポスト印象派、シュルレアリスムなどの芸術運動に多大な影響を与えました。
アングルは生涯に約500点の絵画を制作しましたが、その多くは現在パリのルーヴル美術館やオルセー美術館などに展示されています。アングルは新古典主義から印象派までの橋渡し的な存在であり、フランス美術史において重要な役割を果たしました。

彼の作品は、古典的な美しさとエキゾチズムを兼ね備えたものであり、後世の画家たちに多くのインスピレーションを与えました。彼は自分の芸術観に貫き通したことで、芸術の自由と革新を追求することを示しました。アングルは、新古典主義の巨匠でありながら、印象派の先駆者でもありました。

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