サンドロ・ボッティチェッリ
2023.08.05 ピックアップアーティスト芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。
このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

今回は、ルネサンス期のイタリアのフィレンツェ生まれの画家、サンドロ・ボッティチェッリをピックアップします。
ボッティチェッリは、神話画や宗教画などの傑作を残し、後世の芸術家に多大な影響を与えました。どのようにして彼は名声を得たのでしょうか、彼の作品にはどんな特徴があるのでしょうか。
ボッティチェッリの生涯と代表作品を見ていきましょう。
ボッティチェッリの活躍した時代背景
ボッティチェッリが活躍した15世紀は、イタリアはいくつかの都市国家に分かれていました。中でも、フィレンツェは金融や商業で栄え、文化や芸術の中心地となっていました。
フィレンツェの支配者であったメディチ家は、多くの芸術家や学者を保護し、ルネサンスの発展に大きく貢献しました。ルネサンスとは、古代ギリシャ・ローマ文化の復興という意味で、芸術や文学、哲学などの分野で革新的な動きが起こりました。
特にフィレンツェは、ルネサンスの中心地として栄えました。フィレンツェは、金融や商業で富を築いたメディチ家が支配する共和国でした。メディチ家は、芸術や学問を広く支援し、多くの芸術家や学者を集めました。ボッティチェッリもメディチ家から保護を受けた一人でした。
しかし、フィレンツェは平和な時代ではありませんでした。イタリアは分裂しており、フランスや神聖ローマ帝国などの外国勢力と争っていました。
また、教会内部でも改革運動が起こりました。1492年にメディチ家当主ロレンツォ・デ・メディチが死去すると、フィレンツェは混乱に陥りました。ドメニコ会の修道士サヴォナローラが市政への影響力を強め、フィレンツェの腐敗を批判しました。サヴォナローラは、「異端審問」や「虚飾焼き」などの厳格な措置をとりました。これらの出来事は、ボッティチェッリにも大きな影響を与えました。
ボッティチェッリの生い立ち

ボッティチェッリは1445年頃にフィレンツェで生まれました。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピでしたが、「小さな樽」という意味のあだ名「ボッティチェッリ」で呼ばれるようになりました。
父親は皮なめし職人でしたが、裕福ではありませんでした。幼少期は病弱で、勉学に励んでいました。兄のアントニオは金細工の仕事をしており、ボッティチェッリは彼の工房で芸術家としての初期教育を受けたと考えられます。
修行時代
ボッティチェッリは14歳の時に、フィレンツェの有名な画家フィリッポ・リッピの工房に入りました。
リッピは、人物像に感情や個性を表現することに優れた画家でした。ボッティチェッリはリッピの影響を受けながら、聖母子像などの作品を制作しました。
また、リッピと一緒にプラート大聖堂の礼拝堂にフレスコ画を描く仕事にも参加しました。
この時期のボッティチェッリの作品は、リッピの作品とよく似ています。
ボッティチェッリは、リッピの工房を離れた後も、他の画家から学びました。特にアントニオ・デル・ポッライオーロやアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に出入りしました。
ポッライオーロは、人体の動きや筋肉を正確に描くことに優れた画家でした。ヴェロッキオは、遠近法や空間構成を巧みに使うことに優れた画家でした。ボッティチェッリは、彼らから影響を受けて、絵画様式を徐々に進化させました。
1470年頃、ボッティチェッリは自分の工房を開きました。同年、師匠のリッピが亡くなりました。
ボッティチェッリは、自らの作風を確立するため、1470年から1475年までの間に、彼は多くの宗教画や肖像画を制作しました。
その中でも特に有名なものは、『東方三博士の礼拝』です。この作品は、メディチ家から注文されたもので、メディチ家やボッティチェッリ自身も登場しています。

剛毅
1470年頃 ウフィツィ美術館フィレンツェの裁判所がキリスト教の7つの美徳の擬人像を発注し、その一つ「剛毅」をボッティチェッリが請け負って制作した作品です。厳格な顔立ちや力強いプロポーションは像のテーマをはっきりと感じさせ、床や玉座に見られる遠近法の活用もしっかりとしています。

東方三博士の礼拝
1475年頃 ウフィツィ美術館この場面はボッティチェッリによって正面からの視点に従って考案されましたが、これは当時としては非常に斬新なものでした。というのは、伝統的に東方三博士の礼拝では聖家族が片側に配置され、横顔で描かれていたからです。したがって、キリスト降誕の小屋は中央の岩が露出した一段高い位置にあります。それは天蓋と廃墟の建物の角を支えるいくつかの丸太で構成されています。背景にある古代遺跡の豪華な風景とともに、この半分廃墟となった小屋は、キリストの地上への降臨によってもたらされた異教の世界の破滅を暗示しています。
メディチ家とルネサンス
1475年から1485年までの間が、ボッティチェッリの最も成功した時期でした。
この時期に彼は、神話画や寓意画などの大作を完成させます。その中でも最も有名なものが、『プリマヴェーラ』と『ヴィーナスの誕生』です。
『プリマヴェーラ』は、メディチ家当主ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノ・デ・メディチから注文されたもので、『ヴィーナスの誕生』は、ロレンツォ・デ・メディチから注文されたものです。これらの作品は、古代ギリシャ・ローマ神話を題材にしていますが、当時流行していた新プラトン主義的な思想やメディチ家への賛美も含まれています。
1481年から1482年までの間、ボッティチェッリはローマに滞在しました。
この時期に彼は、システィーナ礼拝堂にフレスコ画を描く仕事に参加しました。この仕事では、他の有名な画家たちと競い合いました。ボッティチェッリは、システィーナ礼拝堂の壁に『キリストの誘惑』と『モーセの試練』の二つのフレスコ画を描きました。
これらの作品は、旧約聖書と新約聖書の物語を対比させることで、神の法とイエスの教えの連続性を示しています。ボッティチェッリは、人物像や風景に緻密な描写を施し、遠近法や色彩にも工夫を凝らしました。
1485年から1490年までの間に、ボッティチェッリはメディチ家からの注文が減り、他の貴族や教会からの注文を受けるようになりました。
この時期に彼は、『聖アウグスティヌス』と『聖セバスティアヌス』の二つの肖像画を制作しました。これらの作品は、人物像に深い感情や思索を表現することで、ボッティチェッリの成熟した技術を示しています。

プリマヴェーラ
1482年頃 ウフィツィ美術館古代ギリシャ・ローマ神話に登場する様々な神々やニンフたちが春の訪れを祝う場面を描いています。中央に立つ女性は愛と美の女神ヴィーナスで、彼女の上空には愛の神クピードが矢を放っています。左端に立つ男性は風神ゼピュロスで、彼が追いかける女性は春の女神フローラです。フローラは口から花を吐き出しており、その花は右端に立つ女性に受け継がれています。この女性は同じく春の女神で、四季の女神の一人でもあります。彼女の周りには花冠をかぶった三人の美しい女性が踊っています。彼女たちは恋愛や喜びを象徴するグラーティア(恩恵)と呼ばれます。この作品は、古代ギリシャ・ローマ文化の復興と新プラトン主義的な思想を表現しています。また、メディチ家の権力や富を象徴しています。

モーセの試練
1481-1482年 システィーナ礼拝堂旧約聖書に登場するモーセの七つの試練が、一つの作品の中に描かれています。「同胞のためにイスラエル人を虐待したエジプト人を殺す」「砂漠に逃亡する」「羊飼いたちを追放する」「得手炉の娘の羊に井戸から汲んだ水を飲ませる」「神の声を聞いてモーセが靴を脱ぐ」「神の前にひざまずく」「イスラエルの民を率いてエジプトを脱出する」というそれぞれのシーンに、オレンジと緑の衣装のモーセが登場します。当時、システィーナ礼拝堂内でフレスコ画を描いていた芸術家たちは同じようなスタイルで作品を描くことで合致していたと言われていて、背景の自然の表現などは、フレスコ画全体で共通性が多く見られます。

ヴィーナスの誕生
1484-1486年 ウフィツィ美術館愛と美の女神ヴィーナスが海から生まれる場面を描いています。左端に立つ男性は風神ゼピュロスで、彼が吹く風でヴィーナスを陸地に運んでいます。ゼピュロスの隣にいる女性は風のニンフで、彼女はヴィーナスに花をまいています。右端に立つ女性は春の女神で、四季の女神の一人でもあります。彼女はヴィーナスに衣服を差し出そうとしています。ヴィーナスは自分の体を控えめに隠しながら、優雅な姿勢で立っています。この作品は、古代ギリシャ・ローマ文化の復興と新プラトン主義的な思想を表現しています。また、メディチ家の権力や富を象徴しています。
晩年
1490年代に入ると、ボッティチェッリの画風は変化し始め、宗教的な主題に傾倒するようになります。
この時期に彼は、『キリスト降架』と『神秘の降誕』の二つの大作を完成させました。
『キリスト降架』は、キリストが十字架から降ろされる場面を描いた作品で、キリストや聖母マリアなどの人物像に悲しみや苦しみが感じられます。『神秘の降誕』は、キリストが生まれた場面を描いた作品で、天使や羊飼いなどが喜びに満ちています。
しかし、この作品には不穏な空気も漂っており、当時のフィレンツェの混乱を反映していると考えられます。
当時フィレンツェでは、ドミニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラが宗教改革運動を起こしており、多くの芸術品や書物が焼き捨てられるなど暗い時代が訪れました。
サヴォナローラは1498年に処刑されますが、その影響は長く残りました。ボッティチェッリは、サヴォナローラの説教に感化されて、自分の作品の一部を焼いたという説もあります。
彼の晩年の作品は、以前の華やかさや陽気さが失われて、より厳格で緊張感のあるものになりました。
1500年以降、ボッティチェッリは制作活動をほとんど行わなくなり、病気や貧困に苦しみました。
1510年5月17日、彼はフィレンツェで亡くなりました。彼は自分が生まれ育った地区にあるオニサンティ教会に埋葬されました。

神秘の降誕
1501年頃 ナショナル・ギャラリー(ロンドン)キリストが生まれた場面を描いています。中央にある小屋の中で、聖母マリアがキリストに抱き寄せられています。キリストは地面に横たわるヨセフに手を差し伸べています。小屋の上空には天使たちが飛んでおり、彼らは喜びに満ちています。小屋の周りには羊飼いや賢者たちが集まっており、彼らもキリストの誕生を祝っています。しかし、この作品には不穏な空気も漂っています。左下には悪魔たちが逃げ去っており、右下には人々が争っています。この作品は、ボッティチェッリがサヴォナローラの改革運動に影響を受けて、キリスト教の救済や終末の予言を表現したことを示しています。この作品は、ボッティチェッリが自分の署名と日付を入れた唯一の作品です。
ボッティチェッリの影響
ボッティチェッリは、ルネサンス期のイタリアを代表する画家として高く評価されています。
彼は、人物像や風景に緻密な描写を施し、遠近法や色彩にも工夫を凝らし、古代ギリシャ・ローマ文化や新プラトン主義的な思想に基づいて、神話画や寓意画などの大作を制作しました。彼は、メディチ家や教会から多くの注文を受けました。
しかし、ボッティチェッリの作品は長い間忘れられていました。彼が亡くなった後、イタリアでは高位ルネサンスが始まりました。
高位ルネサンスでは、ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロなどの画家たちが、より写実的で立体的な絵画様式を確立し、それ以前の作品は「古風で線的なもの」として見られるようになります。
また、フィレンツェではサヴォナローラの改革運動が起こり、芸術や文化に対する風潮が厳格になり、ボッティチェッリの作品は、この時代に合わないものとして忘れ去られていきました。
しかし、ボッティチェッリの作品は、19世紀になって再評価されるようになりました。イギリスの美術史家ジョン・ラスキンや美術批評家ウォルター・ペイターなどが、ボッティチェッリの作品を高く評価します。
彼らは、ボッティチェッリの作品に見られる美しさや優雅さ、感性や想像力を称賛しました。
また、イギリスではプレラファエル派と呼ばれる芸術家たちが、ボッティチェッリの作品に影響を受けて、神話や寓話を題材にした絵画を制作しました。彼らは、ボッティチェッリの作品からインスピレーションを得て、色彩や線描、細部の表現に工夫を凝らしました。
20世紀に入っても、ボッティチェッリの作品は多くの芸術家やデザイナーに影響を与え続けます。
フランスの現代美術家オルランは、『プリマヴェーラ』を自分の顔に投影したパフォーマンス作品を制作しました。アメリカの写真家デビッド・ラシャペルは、『ヴィーナスの誕生』を現代風に再現した写真作品を制作しました。
ボッティチェッリの作品は、時代や文化を超えて多くの人々に感銘を与える存在となりました。
ボッティチェッリは、ルネサンス期のイタリアで活躍した画家で、神話画や宗教画などの傑作を残しました。
古代ギリシャ・ローマ文化や新プラトン主義的な思想に基づいて、人物像や風景に緻密な描写を施し、遠近法や色彩にも工夫を凝らしました。
彼は、メディチ家や教会から多くの注文を受けましたが、後年は病気や貧困に苦しみました。
彼の作品は長い間忘れられていましたが、19世紀以降に再評価されるようになりました。彼の作品は、多くの芸術家やデザイナーに影響を与えています。ボッティチェッリは、ルネサンスの精神を体現する画家として、現代にもなお魅力を放っています。