アントワーヌ・ブールデル
2023.08.12 ピックアップアーティストこの記事には会員専用コンテンツが含まれます。ログインしてお読みください。
芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。
このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

今回は、近代フランス彫刻の巨匠、アントワーヌ・ブールデルをピックアップします。
ブールデルはロダンの力強い表現力と大胆な構想力を受け継ぎつつも、建築的な塊と量とに立脚した独自の芸術的な作風を確立して、20世紀彫刻に新たな息吹を吹きこんだフランスの彫刻家として知られています。彼の活躍した時代や生い立ちを通して、魅力に迫ってみましょう。
ブールデルとその時代
ブールデルは1861年から1929年までの生涯をフランスで過ごしました。彼の時代は、19世紀後半から20世紀前半にかけて、芸術や文化の面で大きな変革が起こった時代でした。印象派やポスト印象派といった新しい画派が登場し、写実主義や古典主義といった従来の美術観を打ち破りました。
また、象徴主義や表現主義といった文学や音楽の流派も花開き、個人的な感情や内面的な世界を表現することが重視されました。さらに、産業革命や科学技術の発展により、社会や経済も大きく変化しました。
一方で、第一次世界大戦やロシア革命といった歴史的な出来事も起こり、世界は混乱と緊張の時代を迎えました。ブールデルはこのような時代の中で、自らの芸術を追求し続けるとともに、多くの後進の指導者としても活躍しました。
ブールデルの生い立ち

ブールデルは1861年10月30日にフランス南部のモントーバンで生まれました。父親は家具職人で木彫家でもありました。ブールデルは13歳で学校を辞めて父親の仕事を手伝うようになりました。その頃から彫刻に興味を持ち始めました。
15歳でトゥールーズの美術学校に入学し、彫刻を学びました。その後、パリのエコール・デ・ボザールに進学しましたが、アカデミックな教育に不満を感じて退学しました。
ロダンとの出会い
1884年にパリ万国博覧会でオーギュスト・ロダンの作品『ブロニューの市民』を見たブールデルは感銘を受けました。当時ロダンはまだ無名の彫刻家でしたが、ブールデルは彼の才能を認めて弟子入りを志願しました。しかし、ロダンは最初彼を受け入れませんでした。ブールデルはしばらく自分で作品を制作しながらロダンに接近しようとしましたが、なかなか成功しませんでした。
1893年にようやくロダンの助手として働くことができるようになりました。
ブールデルはロダンから多くのことを学びましたが、同時に自分自身の個性を失わないように努めました。

モントーバンの戦士
1898-1900年 ブールデル美術館ブールデルの故郷であるモントーバンに設置する記念碑のコンペへ出品された作品です。当時フランスは紛争による国民の失意を回復するために国威称揚的な巨大モニュメントの建設を相次いで行いました。まだ無名であったブールデルのこの作品は入選をはたしますが、兵士のたくましく誇張された腕、力強いポーズや表情の荒々しさは当時の人々に批判されました。
独立への道
1900年頃からブールデルはロダンから離れて自分の作風を確立し始めました。古代ギリシャやローマの彫刻から影響を受けて、幾何学的で構築的な形態を追求しました。
1909年に制作した『弓を引くヘラクレス』は、その代表作の一つです。この作品は、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが怪鳥ステュムファリデスを射るために弓を引く瞬間を表現したもので、筋肉や骨格の強調と緊張感のあるポーズが特徴です。この作品はサロンで高い評価を受けました。
また、ブールデルはベートーヴェンを題材にした多くの作品を制作しました。彼はベートーヴェンの音楽に深い感銘を受けており、その精神や表情を彫刻で表現しようとしました。

アポロンの頭部
1900彼の芸術の進化を示す作品です。この作品は、ブールデルが自身のスタイルを見つけ、ロダンの影響から離れていく過程を示しています。アポロンは美と芸術の神であり、この作品はブールデルの芸術観を象徴しています。彼の作品は、古典的なテーマを現代的な視点で解釈することで、新しい芸術の形を生み出しています。

ベートーヴェン像
1903年 オルセー美術館ドイツの音楽家ベートーヴェンを題材にした作品。ブールデルはベートーヴェンの音楽に深い感銘を受けており、その精神や表情を彫刻で表現しようとしました。極度の集中力と目を閉じた表現は、耳が聞こえず、その監禁生活に苦しんでいたベートーヴェンが作品の中で表現しようとした内なる世界の象徴と解釈できます。蓄積されたエネルギーが乱れた髪に放出され、それは自らの命を持って生きているようで、作曲家の顔を圧倒します。

弓を引くヘラクレス
1909年 メトロポリタン美術館ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが怪鳥ステュムファリデスを射るために弓を引く瞬間を表現した作品。筋肉や骨格の強調と緊張感のあるポーズが特徴で、ブールデルの個性が最もよく現れていると言われています。

瀕死のケンタウロス
1911-1914年 国立美術館傷ついてまさに倒れんとするケンタウロスの姿が、生への執着と苦痛からの解放という交錯した緊張の一瞬のうちに捉えられています。無数の凹凸を持つ、ごつごつした荒れた肌には、風雨に耐えぬいた古い聖堂の石壁を思わせるものがあり、これは、ブールデルが建築に匹敵する力を彫刻芸術に取り入れようとした試みでした。ブールデルは、ゴシック聖堂が示すようなモニュメンタルな芸術を探求していました。
記念碑と教育
ブールデルは記念碑や肖像彫刻の制作も多く手がけました。
1913年にはアルゼンチン政府から『アルヴェアール将軍の記念碑』の制作を依頼されました。この記念碑はブールデルにとって最大の仕事であり、10年以上かけて完成させました。ブールデルはこの記念碑のために多くの習作を制作し、その中には群馬県立近代美術館に展示されている『巨きな馬』含まれます。
また、ブールデルは教育者としても優れており、多くの若い芸術家たちが彼のアトリエに集まりました。彼の教え子にはアルベルト・ジャコメッティやアリスティード・マイヨールなどがいます。

ポーランドの叙事詩
1917年 ブールデル美術館ポーランドの自由と独立を目指して生涯をささげた詩人のミスキエヴィッチの記念碑の一部分です。剣を手に振り下ろそうとしている凛々しい女性から、ロダンよりも劇的でダイナミックな構図を好んだブールデルのアカデミックな表現を見ることが出来ます。

アルヴェアール将軍の記念碑
1913-1923年 ブエノスアイレスアルゼンチンの独立戦争の英雄アルヴェアール将軍を称えるために制作された記念碑です。ブールデルはこの記念碑のために10年以上かけて多くの習作を制作しました。記念碑は将軍の騎馬像とその周囲に配置された四人の女性像からなり、自由や正義などの象徴的な意味を持ちます。
晩年
ブールデルは晩年にも精力的に作品を制作し続けました。1924年にはレジオンドヌール勲章を受章しました。
1929年にはパリ市から自分のアトリエを美術館として保存することを提案されましたが、その前日にパリ近郊のル・ヴェジネで心臓発作で倒れて死去しました。
パリのモンパルナス墓地に埋葬されています。現在、パリ15区にあるブールデル美術館は、彼が住んでいた家やアトリエから成り立っており、彼の作品や遺品が展示されています。
ブールデルの影響
ブールデルは近代フランス彫刻の巨匠として、後世の多くの芸術家に影響を与えました。彼は古典的な伝統と新しい表現方法を融合させ、彫刻に幾何学的で構築的な美しさをもたらしました。
また、彼は教育者としても優れており、多くの若い芸術家たちが彼のアトリエに集まりました。彼の教え子にはアルベルト・ジャコメッティやアリスティード・マイヨールなどがいます。日本人では保田龍門や清水多嘉示などがブールデルに学びました。
ブールデルはロダンから学んだ後、自分自身の個性を発揮して多くの傑作を制作しました。古代ギリシャやローマの彫刻から影響を受けて、幾何学的で構築的な形態を追求しました。
また、ベートーベンやアルヴェアール将軍といった人物や歴史的なテーマを題材にした作品も制作しました。ブールデルは自らの芸術を追求し続けるとともに、多くの後進の指導者としても活躍しました。彼は近代フランス彫刻の巨匠として、後世の多くの芸術家に影響を与えました。