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フェルディナント・ホドラー

2023.10.11 ピックアップアーティスト

芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

フェルディナント・ホドラー

今回は、スイスを代表する画家であり、象徴主義や表現主義の先駆者とされるフェルディナント・ホドラーをピックアップします。

ホドラーは、生涯を通じて母国スイスにとどまりながら、自然や人間の姿を独自の視点で捉えた作品を数多く残しました。彼の作品には、対称性や平行性といった構成的な特徴や、強烈な色彩や幾何学的な図形といった表現的な要素が見られます。
ホドラーは、自身の芸術理念を「パラレリズム」と呼び、自然の中に存在すると感じていた秩序やリズム、統合を表現しようとしました。
ホドラーの生涯と代表作品を通して、彼の芸術性や人間性に迫ってみましょう。

ホドラーとその時代

ホドラーが活躍した時代は、19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパでした。
この時期は、産業革命や帝国主義の影響で社会や文化が大きく変化し、科学や技術の発展とともに、芸術や思想の分野でも革新的な動きが起こりました。
印象派やポスト印象派、象徴主義や表現主義など、様々な芸術運動が花開き、画家たちは自らの個性や感性を自由に表現するようになりました。
また、第一次世界大戦の勃発によって、ヨーロッパは大きな混乱と苦悩に見舞われ、多くの芸術家たちもその影響を受けました。

ホドラーはスイス出身であり、スイスは中立国として第一次世界大戦には参加しませんでしたが、周囲の国々との関係や国内の政治的な対立によって、スイスもまた緊張と不安に満ちた時代を過ごしました。
ホドラーはスイスの国民的な画家として、歴史的な場面や愛国的な主題を描くこともありましたが、同時に自らの内面や人間性を探求する作品も多く制作しました。
ホドラーは自然や人間の姿に秩序や調和を見出そうとし、独自の表現手法である「パラレリズム」を確立しました。パラレリズムとは、画面上に対称性や平行性を持つ図形や色彩を配置することで、リズム感や統一感を生み出す方法です。
ホドラーはこの手法で自然の美しさや人間の尊厳を描き出しました。

ホドラーの生い立ち

フェルディナント・ホドラー
フェルディナント・ホドラー

1853年3月14日、フェルディナント・ホドラーはスイスの首都ベルンで6人兄弟の長男として生まれました。
父親は大工、母親は農民の家庭の出身で、彼が8歳になるまでに父親と2人の弟を結核で亡くしました。
母親は装飾画家と再婚し、ホドラーの家族は13人となります。家族の財政は貧しく、9歳のホドラーは義父の看板の塗装を手伝いながら絵に興味を持つようになりました。
1867年に母親も8人の子供を残して結核で亡くなり、ホドラーは兄弟と母親の死体を荷車で運んだと語っています。
このような悲惨な幼少期の体験が、彼の感性に「死」という存在を深く植えつけました。

絵の修行

ホドラーは義父から絵画の最初の手ほどきを受け、12歳のときにはアルコール依存症だった義父の工房を引き継ぎ、家族を支えました。
その後、トゥーンのドイツ人画家フェルディナント・ゾンマーの下に弟子入りしました。ホドラーはゾンマーから、伝統的なアルプスの風景を描く技術を学び、観光客向けに風景画や肖像画を描いて生計を立てていました。

1871年、18歳となったホドラーはジュネーヴに移り住み、美術学校に入学します。
1875年にバルテルミ・メンの徒弟となり、アルブレヒト・デューラーや、ハンス・ホルバインなどの絵画を研究しました。
また、メンはカミーユ・コローの友人でもあったことから、当時フランスで画家として活躍していたコローの影響も受けたと考えられています。

1878年にはスペインに旅行し、マドリードやグラナダなどの都市や風景を描きました。
スペインではプラド美術館でベラスケスティツィアーノラファエロなどの巨匠の作品を学びました。
1880年代にはパリやミュンヘンなどの芸術の中心地にも足を運び、当時の最新の芸術運動にも関心を持ちました。しかし、ホドラーはパリに定住することはせず、ジュネーブを拠点とし続けました。

フライブルクの雄牛

フライブルクの雄牛

1880年

ホドラーが写実主義を学んでいた時期の作品です。この頃のホドラーは古典芸術から写実的な描写技術を学び、正確なデッサン力と描写力を身につけています。

マリー・エリーゼ・ベルンハルト・ホドラーの肖像

マリー・エリーゼ・ベルンハルト・ホドラーの肖像

1881年

画家の妹、マリー=エリーゼ・ホドラー(1855年 - 1885年)の肖像画です。マリー=エリーゼ・ホドラーが1881年に結婚したアルバート・ベルンハルトの花嫁として描かれています。

1884年、31歳になったホドラーはオーギュスティーヌ・デュパンと出会い、デュパンはさまざまな作品のモデルに、そして恋人になりました。
彼女はホドラーに多大な影響を与え、彼の作品に明るさや優しさをもたらしました。1887年には彼女との間に息子ヘクターが生まれました。
しかし、デュパンは病を患います。

1889年に、ホドラーはベルタ・シュトゥックという女性と一度目の結婚しますが、ホドラーはデュパンとの関係は終わらず、ベルタとは2年後の1891年に離婚しました。

代表作となる『』が1891年にパリのシャン=ドゥ=マルスのサロンに出品され注目を集めました。
この作品は、横たわる女性の平行性が強調された構図で、中央に描かれる男は何か黒い物体を押しのけようとしています。 これは若き日のホドラー自身を描いた自画像といわれています。作品の手前、左にいる女性はデュパン、右にいる女性はベルタです。 この作品は、彼の芸術理念である「パラレリズム」の最初の表現とも言えます。
これは、自然の中に存在すると感じていた対称性や平行性、リズムや統合を表現することを意味しました。ホドラーは画面の構成や色彩、形態などにおいて、これらの要素を強調しました。
この作品は当初、猥褻であると批判され、スキャンダルとなりましたが、ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌオーギュスト・ロダンなどの支持されて高い評価を得ました。これによって、ホドラーは象徴主義の画家として脚光を浴びました。

1894年、ホドラーはベルト・ジャックと出会い、1897年に二度目の結婚します。この結婚でも、最初の結婚と同様、子供は生まれませんでした。

オーギュスティン・デュパンとヘクター(母と子)の肖像

オーギュスティン・デュパンとヘクター(母と子)の肖像

1888年 チューリッヒ美術館

オーギュスティン・デュパンとヘクターの5つのスケッチ。この絵は4つの正方形に分かれており、小さな子供を抱いた女性が描かれています。

花を持つベルタ・シュトゥック

花を持つベルタ・シュトゥック

1887年 個人蔵

彼の最初の妻ベルタ・シュトゥック、親指と人差し指で慎重にヒナギクを見つめています。ホドラーにとって、花はとりわけ、繰り返しと規則性を体現しており、目を落ち着かせる効果がありました。花は反復的な要素の組み合わせであり、要素はユニークです。手に一輪の花を持つ若い女性の描写は、ホドラーで繰り返し登場するモチーフです。

夜

1889 - 1891年 ベルン美術館

暗闇の中で横たわる女性たちと、その中央に立つ男性が描かれた作品。男性は何か黒い物体を押しのけようとしており、これは若き日のホドラー自身を象徴していると言われています。この作品では、女性たちの平行性や対称性が強調されており、「パラレリズム」の萌芽が見られます。

ベルト・ジャックの肖像

ベルト・ジャックの肖像

1894年 美術館

ベルト・ジャックはホドラーの二番目の妻でした。彼女がこの画家に出会ったのは、『夜』のスキャンダルがパリとジュネーブの故郷でホドラーに大きな悪名をもたらした直後だった。彼の魅力だけでなく名声にも敏感だった彼女は、1892年に彼のモデルになりました。二人の関係が確認されたのは1895年になってからでした。二人は1898年3月11日にベルンで結婚しました。

画家としての成功

ホドラーは寓意画や歴史画などを多く制作しました。
彼は愛や死、信仰や希望といった普遍的なテーマを探求し、人間の姿や感情を大胆に表現しました。
ホドラーはフランス芸術家協会の会員となり、1892年にはゴーギャンモローナビ派などの世紀末画家たちの作品が集う「薔薇十字サロン」へ出品しました。
この頃の作品は徐々にモニュメンタルな人物をモチーフに描く回帰的傾向を強め、『ウィリアム・テル』など、スイスの歴史や伝説を題材にして、愛国心や自由への憧れを表現しました。これらの作品はスイスの国民的な画家としてのホドラーの地位を確立しました。

1900 年、ホドラーはパリ万国博覧会で3つの主要な作品、『』『オイリュトミー』『』を展示し、賞を受賞しました。
1900年以降のホドラーの作品は、色彩豊かで幾何学的な図形を用いた表現主義的な側面を持ちました。風景は必要最低限​​にそぎ落とされ、時には水と空の間にあるギザギザのくさび形の土地で構成されていました。
1904年、ベルリン分離派ウィーン分離派に招待されています。
ウィーン分離派展ではホドラーの作品はメインルームに展示され、ベルリンの分離派展ではホドラーのためにギャラリーがひとつ割り当てられました。

ホドラーはこの時期に最も多くの作品を制作しましたが、その中でも風景画と肖像画に力を注ぎました。
彼はアルプス山脈やジュネーヴ湖など自然の美しさや壮大さを感じさせる風景画を多数制作し、友人や知人、愛人や自分自身など様々な人物の肖像画も制作しました。
彼は人物の内面や感情を表現するために、色彩や形態、背景などに工夫を凝らしました。
ホドラーは大規模な壁画や天井画も手がけ、スイス国内外で多くの公共建築や美術館に作品を残しました。また、歴史的・国民的な主題も扱い、スイスの紙幣のデザインも担当しました。

生の疲れ

生の疲れ

1892年 ノイエ・ピナコテーク

白い僧衣のようなものに身を包む5人の老人があまり楽観的ではない表情で何かを見つめています。彼らはお互いに会話するでもなく、その肉体的および精神的な疲労を感じ、その悲しい無表情で「人生に疲れ」を伝えているようです。この作品は人物と線によるリズミカルな形式の繰り返し「パラレリズム」が色濃く出ています。

オイリュトミー

オイリュトミー

1895年 ベルン美術館

オイリュトミーとは古代ギリシャ語の「よきリズム」という意味で、この作品は「生のリズム」を表現しています。中央に一人、前後に二人ずつという構成で、人物の一人一人は顔の表情や姿勢、仕草などが個性的に描かれ、リズムを生み出しています。下を向いて歩んでいる姿には悲壮感を感じることができます。ホドラーはこの作品で生から死へ向かう人々を表現しているのかも知れません。

木を伐る人

木を伐る人

1910年 ベルン モビリアール美術コレクション

1911年から1958年まで流通していた50スイスフランに使われた絵柄の原画です。この人物は左利きのようですが、紙幣の絵柄より原画の方が斧を振りかぶった姿に力強さがあります。スイスは現在もユーロ圏に入っておらず、スイスフランが流通しています。ホドラーは生涯スイスで制作を続け、国民的人気を得る画家となっています。

死を見つめる画家

1908年に24年間愛人として彼と関係を続けたオーギュスティーヌ・デュパンが亡くなります。
この時、ホドラーはデュパンの遺体を数枚の絵として残しています。

1908年、55歳のホドラーはヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルと出会い情熱的な恋に落ちます。
この頃、20歳も若い彼女をモデルとして何点も作品を制作していますが、ホドラーは2番目の妻ベルトと暮らし続けました。

1913年、ヴァランティーヌとの間に娘をもうけましたが、ヴァランティーヌが卵巣癌と診断されます。
ホドラーは闘病により衰え行く彼女の姿を描き続けました。やがて娘のポーリンが誕生して間もなく、ヴァランティーヌは1915年1月に亡くなりました。
彼女の死はホドラーに大きな影響を与え、彼女の死後も彼女の肖像画を描き続けました。ホドラーは彼女との関係を「私の人生で最も美しいこと」と語っています。
娘のポーリン・ヴァランティーヌ・マグネナート=ホドラーは、ホドラーの妻ベルトによって育てられ、後に画家になりました。

死の床にある瀕死のオーギュスティーヌ

死の床にある瀕死のオーギュスティーヌ

1908年 ゾロトゥルン美術館

1908年に、彼の最初の愛人の一人であり、彼の息子ヘクターの母であるオーギュスティーヌ・デュパンが亡くなり、ホドラーは彼女をその死の床で描きました。彼はベーゼルの美術館で見たホルバインのキリストの死に触発され、リアルなディテールと象徴的なシグナル「魂を象徴する青い三本のストライプなど」を組み合わせました。

ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの肖像

ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの肖像

1909年 ベルン美術館

ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルはホドラーと20歳年の違う恋人で、ホドラーは彼女をモデルにした作品も多く描いています。ホドラーと会った翌年で、幸せそうな顔で振り向いています。

ダンサー ジュリア・レオナルディの肖像

ダンサー ジュリア・レオナルディの肖像

1910年 ヴァルラフ・リヒャルツ美術館

1910年から1911年頃、ホドラーはイタリアの歌手、ギタリスト、ダンサーであるジュリア・レオナルディに魅了されました。彼女はジュネーブのカフェで定期的に演奏していて、そこで初めて出会いました。ホドラーは彼女の一連の肖像画を描きましたが、この肖像は、丁寧に表現された肌の色調と色、そして彼女の表情が特に印象的な作品です。

バラの中の死したヴァランティーヌ・ゴデ=ダレル

バラの中の死したヴァランティーヌ・ゴデ=ダレル

1915年 チューリヒ、コーニンクス財団

ホドラーは病床のヴァランティーヌを何枚もスケッチし、亡くなった翌日にはその遺骸を油彩で描き遺しています。痩せこけた顔や手足も偽らずに描いていますが、背景は明るいピンクに塗られ、紅いバラも浮かんでいます。何度も愛する人の死に直面してきたホドラーは、その存在を永遠に留めようとしたのかもしれません。

晩年

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、スイスは中立国として周囲の国々との交流が断たれました。
ホドラーは戦争に反対する立場を取り、ドイツ軍によるランス大聖堂砲撃に対する抗議の書簡に署名します。 これによってドイツの芸術家協会から追放されましたが、スイス国内での彼の評価は高まりました。

ヴァランティーヌの死後、ホドラーは健康状態が悪化していきました。1917年11月に肺水腫を患い、息子に自殺を考えていると告げています。ほとんど寝たきりでしたが、自宅のバルコニーからジュネーブの景色を数多く描きました。
1918年5月19日、ホドラーはジュネーブ湖畔のアパートで息を引き取りました。65歳でした。
彼は最期まで絵画を制作し続け、自分自身の死と向き合う姿勢を見せました。
彼は生涯に約2000点の作品を残しました。彼の作品は、スイスやドイツ語圏の芸術家たちに大きな影響を与えました。また、20世紀の抽象芸術や表現主義にも先駆けるものでした。
ホドラーは、自然や人間の姿を独自の視点で捉えた画家であり、パラレリズムという芸術理念を追求した画家でした。
彼はスイス最大の画家として多くの人々に敬愛され、その作品は今もなお世界中で展示されています。

エマ・シュミット=ミュラーの肖像

エマ・シュミット=ミュラーの肖像

1915年 個人蔵

ウィーン分離派展に出展された作品です。体を傾けて、静かに膝の上に手を置いて座っている黒髪と黒い目の女性は、堅実で透明感のある深く人間的な印象を与えます。この肖像画の光と闇のコントラスト、そして緑と黄色を基調としたこの作品は、他のどの作品と比較しても異質なもので、注目を集めました。

庭にいるゲルトルート・ミュラーの肖像

庭にいるゲルトルート・ミュラーの肖像

1916年 ゾロトゥルン美術館

ゲルトルート・デュビ=ミュラーはゾロトゥルンの実業家の娘で、20世紀初頭の非常に重要な美術コレクターでした。彼女はホドラーと長年にわたる親密な友情を持っており、ホドラーは何度も彼女を描きました。熱心な写真家であるミュラーは、最後の7年間にスタジオで働くホドラーの写真を100枚以上撮影しました。

自画像 C

自画像 C

1916年 ゲンク美術歴

ホドラーは多くの自画像を描きました。この作品は晩年に制作されたものです。多くの「死」を見届けてきたホドラーは、自分の老いた顔を見つめながら、やがて訪れる自身の「死」を連想し、まるで「生」を確認するかのような視線をこちらに向けています。

ホドラーの影響

ホドラーはスイスを代表する画家であり、象徴主義や表現主義の先駆者としても高く評価されています。
彼は自然や人間の姿に秩序や調和を見出そうとし、独自の表現手法である「パラレリズム」を確立しました。また、常に「死」と向き合い、自らの内面や人間性を探求し、普遍的なテーマを大胆に表現しました。
晩年には抽象的で単純化された図形や色彩を用いるようになり、表現主義や抽象芸術の先駆けとなりました。彼の作品は多くの後世の画家たちに影響を与えました。
クリムトシーレなどのオーストリア表現主義の画家たちは、ホドラーの表現に共感しました
さらに、カンディンスキーヤウレンスキーなどの青騎士の画家たちはホドラーの抽象化やリズム感、図形や色彩に着想を得ました。


フェルディナント・ホドラーは、19世紀末から20世紀初頭に最も影響を与えたスイスの画家とみなされています。 クリムトヤウレンスキーの友人であり、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌロダンカンディンスキーからも賞賛されたホドラーは、ベル・エポック・ヨーロッパにおける近代化の主な推進者の一人です。
幼少期に結核で家族を失った悲劇的な体韓から芸術家として成長しました。
何度も愛する存在の「死」に直面し、それを正面から受け止め、ありのままの姿を自らの作品で表現しました。 ホドラーの人物画は複数の人物を1枚の絵に繰り返し描くことで、すべての人間は同じ運命にあることを表しています。
また、「死」の反対にある「生」に対し、自然や人間の姿に秩序や調和を見出そうとし、独自の表現手法である「パラレリズム」を確立し、表現主義や抽象芸術の先駆者となりました。
ホドラーはスイスの風景や歴史を題材にして、スイスのアイデンティティや精神を表現しました。彼の作品は多くの画家たちに影響を与え、スイスの芸術や文化にも大きな貢献をしました。
彼はスイスの国民的な画家として、多くの人々から敬愛されています。

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