芸術家ミケランジェロの年表
2023.06.15 ミケランジェロ
西洋美術史上、最も偉大な芸術家の一人として名高いミケランジェロ・ブオナローティ。
彫刻家、画家、建築家、詩人として多方面にわたって活躍し、ルネサンス期の芸術に大きな影響を与えました。そんなミケランジェロの人生と作品、彼と同時代を生きた芸術家ダ・ヴィンチとラファエロ、晩年に深く交流を持ったヴィットリア・コロンナを含めて年表を見ていきましょう。
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14750
フィレンツェ共和国のカプレーゼに生まれる
父ルドヴィーコは銀行業に失敗し、共和国政府の臨時職員として生計を立てる
父がフィレンツェに戻り、ミケランジェロはセッティニャーノの農園の乳母に預けられる
『受胎告知』を完成
14816
母フランチェスカが亡くなる
一家はフィレンツェに戻り、幼少期を過ごす
芸術に関心を示す
14827
ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕える
14838
『岩窟の聖母』の制作を開始
イタリア、ウルビーノに生まれる
148813
フィレンツェのドメニコ・ギルランダイオの工房に弟子入りする
メディチ家が芸術の庇護者となり、多くの芸術作品を学ぶ
149015
プラトン・アカデミーに参加し、人文主義者や詩人たちと交流する
彫刻を学び、作品『階段の聖母』と『ケンタウロスの戦い』を制作する
画家ピエトロ・ペルジーノの工房で修行を開始する
149217
後援者であるロレンツォ・デ・メディチが亡くなり、父の元に戻る
フィレンツェの政変によりフィレンツェを去り、ヴェネツィア、ボローニャへと移る
フィレンツェがフランスの侵攻と修道士サボナローラの扇動によりメディチ家を追放マリーノで生まれる
149318
修道院に木彫の『キリスト磔刑像』を制作する
大理石の塊を購入し、『ヘラクレス像』の制作を始める
149419
ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチから雪像制作の依頼を受ける
フィレンツェに戻り、メディチ家傍流のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチによる詐欺事件が起きる
ローマに招聘される
149520
『最後の晩餐』の制作を開始
149621
ローマに移住する
ローマで枢機卿ラファエーレ・リアーリオからの依頼で『バッカス像』の制作を開始
ローマにおける芸術の庇護者としての地位が重要であり、作品の受け入れには厳格な基準があった149722
フィレンツェでサボナローラの芸術排斥運動が終わり、ミケランジェロは帰還する
教皇庁の依頼で『ピエタ』の制作を開始する
ルネサンス期の芸術が隆盛し、芸術家たちは教会や教皇からの注文を受けることが多かった149924
『ピエタ』を完成させる
フィレンツェに帰還し『ダヴィデ像』の制作を依頼される
『聖家族』を制作
フィレンツェの政治情勢が変化し、再び作品制作の注文を受けることができるようになった第二次イタリア戦争が起こり、ヴェネツィア共和国へ逃れる
ウルビーノの宮廷画家として働き始める
150025
ミラノ公国がフランスに占領されフィレンツェに戻る
ウルビーノに戻り、独立した画家として活動を始める
150126
シエナ大聖堂の15体の像と『ダヴィデ像』の制作を開始する
サンスピリト聖堂で解剖学の研究を始める
150328
アルテ・デッラ・ラーナと大聖堂のための12体の等身大使徒像の制作契約を結ぶが、結局『聖マタイ』の習作のみを作成
フィレンツェ政庁よりパラッツォ・ヴェッキオ宮の大広間にミケランジェロとダ・ヴィンチとで対面の壁画を描く委嘱を受け、 ミケランジェロは『カッシーナの戦い』、ダ・ヴィンチは『アンギアーリの戦い』の下絵を制作する
教皇ユリウス2世の即位『モナ・リザ』の制作を開始
150429
『カッシーナの戦い』の絵画を完成させる
『ダヴィデ像』を完成させる
ローマへと移動し、新たな依頼を受ける
フィレンツェに移住し、ダ・ヴィンチやミケランジェロに影響を受ける
150530
『システィーナ礼拝堂の天井壁画』の制作を開始
ローマに呼び戻され、『教皇ユリウス2世の霊廟』制作を命じられる(完成までには40年の歳月を要することになる)
芸術家たちは教皇や教会からの依頼によって作品を制作し、教皇庁の庇護を受けていた『アンギアーリの戦い』を制作
150631
ローマに移住
150833
再びミラノに引っ越す
151136
『アテネの学堂』を制作
151237
『システィーナ礼拝堂の天井壁画』を完成させる
151338
サン・ロレンツォ教会のファサードと彫像の制作を依頼されるが、途中で放棄される
メディチ家出身のローマ教皇レオ10世から『メディチ家礼拝堂』の制作を依頼される
ユリウス2世が死去し、レオ10世が教皇に就任 イタリア戦争の再燃し、フィレンツェの共和制が回復ローマに移住し、『洗礼者ヨハネ』を制作
『小椅子の聖母』を制作
151439
サンピエトロ大聖堂の主任建築師に就任
151641
教皇レオ10世が死去し、教皇アレクサンデル6世が即位
フランス王フランソワ1世に招かれ、フランスに移住
151742
ローマ教皇レオ10世からバチカン宮殿の改築計画を任命される
151843
ローマ教皇レオ10世によって、サン・ロレンツォ大聖堂のファサード再建と彫刻による装飾の依頼を受ける
ルネサンスの絶頂期となり、芸術家や建築家が多くの依頼を受けていた151944
フランスのアンボワーズで死去(享年67歳)
カール5世が神聖ローマ皇帝に即位152045
『メディチ家礼拝堂』の制作を開始
ローマで急逝(享年37歳)
152146
ハドリアヌス6世がパトロンの一人となる
教皇レオ10世が死去し、ハドリアヌス6世が後継の教皇になる152752
フィレンツェ防衛に携わる
カール5世がフランスと結んだローマ教皇を攻撃し、ローマ劫略が起こるフィレンツェの要塞建築監督として活動し、フィレンツェを支援
フィレンツェ市民がフィレンツェ共和国の再興を目指してメディチ家を追放するが、政情は不安定 ローマ劫略(ごうりゃく)によるイタリア・ルネサンスの終末152954
神聖ローマ帝国軍の攻撃によりフィレンツェが降伏し、逮捕を免れるために潜伏
『メディチ家礼拝堂』の地下で隠れながらフィレンツェの陥落を体験する
メディチ家の追放とフィレンツェの陥落153055
『メディチ家礼拝堂』の制作を中断し、フィレンツェを離れる
神聖ローマ皇帝カール5世がフィレンツェを陥落させ、メディチ家が権力を取り戻す153358
教皇パウルス3世から『最後の審判』の制作を依頼され、ローマに滞在する
ミケランジェロと出会う
ヴィットリア・コロンナとの交流が始まり、以後互いにソネットを送りあう
153459
『メディチ家礼拝堂』を完成させる
ローマに移住し、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂に住む
153661
ローマ教皇クレメンス6世の注文により、『最後の審判』の制作を始める
ローマに移住
154166
システィーナ礼拝堂の壁画『最後の審判』を完成させる
ヴィテルボに移住
154469
大病を患い、生死を彷徨う状態に陥る
ローマに移住
154570
『教皇ユリウス2世の霊廟』を完成させる
154671
ローマ・バチカンのサンピエトロ大聖堂の主任建築師に就任
154772
ヴィットリア・コロンナ死去(享年56歳)
156488
彫刻『ロンダ二―二のピエタ』の制作を続けながら2月18日、88歳で亡くなる
遺体はフィレンツェに運ばれ、サンタ・クローチェ教会に埋葬される
ルネッサンスの3人の芸術家

ミケランジェロは、同じ時代に活躍したダ・ヴィンチやラファエロとライバル関係にありましたが、彼らとの交流もありました。
ミケランジェロとダ・ヴィンチは、フィレンツェのヴェッキオ宮殿大広間の壁画制作を依頼されましたが、互いに嫌っていたために対立しました。 ダ・ヴィンチは油彩で描こうとしたが失敗し、ミケランジェロはフレスコ画で描こうとしたが中断しました。結局、どちらも完成させることはできませんでした。
ミケランジェロとラファエロは、ローマのシスティーナ礼拝堂天井画とスタンツェの壁画制作で競い合いました。 ラファエロはミケランジェロの天井画に感銘を受けて、自分の作品に彼の影響を取り入れました。ミケランジェロはラファエロの模倣を嫌っていましたが、彼の死後には彼を称賛する詩を書きました。
この3人は、ラファエロの『アテナイの学堂』という絵画で共演しています。プラトン(中央)はダ・ヴィンチに似せて、ヘラクレイトス(手前階段)はミケランジェロに似せて描かれています。これはラファエロが彼らを尊敬していたことを示しています。
ヴィットリア・コロンナとの交流


1492 - 1547
ミケランジェロ・ブオナローティは、イタリア盛期ルネサンス期の彫刻家、画家、建築家、詩人として偉大な人生を送りました。しかし、彼の人生には、もう一つ重要な要素がありました。それは、彼が晩年に出会った女性詩人、ヴィットリア・コロンナとの関係でした。
ヴィットリア・コロンナは、1492年にイタリアの名門貴族コロンナ家の娘として生まれます。彼女は4歳の時にペスカーラ侯爵の息子フェルナンド・ダヴァロスと婚約し、19歳で結婚した。彼女は夫を深く愛し、彼が軍人としてフランスとの戦争に従事する間も文通を続けました。しかし、1525年に夫がパヴィアの戦いで負った傷がもとで死亡すると、彼女は悲しみに暮れ、彼女は修道院に入ろうとしたが、教皇や親族に反対されました。そこで彼女は詩を書くことに情熱を注ぎ、16世紀イタリアで最も人気のある詩人の一人となりました。

1536年、46歳の時にローマに戻ったコロンナは、61歳のミケランジェロと出会いました。ミケランジェロは当時、教皇パウルス3世から依頼された『最後の審判』を制作中でした。二人はすぐに意気投合し、芸術的な親交を深めました。ミケランジェロは彼女にいくつかの素晴らしいソネットを贈り、彼女のために絵を描き、長い時間を彼女と過ごしました。彼女は宗教的な詩の草稿を彼に贈りました。
二人の関係は恋愛ではなく友情だったという説もありますが、ミケランジェロが彼女に対して深い感情を抱いていたことは確かです。彼は自分の詩集に「私は死んだ夫人(コロンナ)へ」という題名をつけており、彼女が1547年に死去した時には激しく悲しみ、彼はその後も詩や絵で彼女を偲び続けました。
ミケランジェロとコロンナの関係は、芸術と愛の交流として記憶される。二人は互いに影響を与え合い、刺激し合い、励まし合った。二人が残した詩や絵は、その証拠であり、後世の芸術家や文学者にも影響を与えました。ミケランジェロとコロンナの関係は、ルネサンス期のイタリアにおける芸術と愛の象徴として、今もなお語り継がれています。
ミケランジェロの作品とその特徴
ミケランジェロは彫刻家として最も有名ですが、絵画や建築にも優れた作品を残しました。彼の作品には以下のような特徴があります。
彫刻では、大理石を鮮やかに彫り出し、人体の筋肉や表情をリアルに表現しました。彼は自分の作品に「息吹き込むだけで動き出す」と言ったと伝えられています。 絵画では、システィーナ礼拝堂天井画や「最後の審判」など、壁面に巨大な絵画を描きました。彼は色彩よりも形態に重きを置き、人物や物語を力強く描き出しました。 建築では、サン・ピエトロ大聖堂の設計や改築に携わりました。彼はドームやファサードなどの部分を担当し、円形や円柱などの古典的な要素を取り入れました。
ミケランジェロの作品は、ルネサンス期の芸術の最高峰として称賛されています。彼は自分の芸術観を貫き、時代や権力に屈することなく創作し続けました。彼は自分の作品に署名することはほとんどありませんでしたが、その才能は世界中に知れ渡りました。彼は芸術家としてだけでなく、人間としても尊敬される存在です。
ミケランジェロは西洋美術史上最も偉大な芸術家の一人です。彫刻家、画家、建築家、詩人として多方面にわたって活躍し、ルネサンス期の芸術に大きな影響を与えました。彼の代表作である『ピエタ』や『ダヴィデ像』、『メディチ家礼拝堂』『システィーナ礼拝堂』などは今でも世界中の人々を魅了しています。彼は自分の芸術観を貫き、時代や権力に屈することなく創作し続けました。彼は芸術家としてだけでなく、人間としても尊敬される存在です。