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フランシス・ゴヤ

2023.08.24 ピックアップアーティスト

芸術は単なる目的地ではなく、人間の本質と尽きることのない創造性への深淵な冒険です。多様な芸術家たちは、終わりなき探求に自身の芸術的な才能で何を伝えようとしたのでしょうか。

このピックアップアーティストでは、さまざまな芸術家の生涯と作品に深く迫り、彼らが後世に残した貢献と遺産を明らかにしたいと思います。

フランシス・ゴヤ

今回は、スペイン最大の画家と称されるフランシス・ゴヤをピックアップします。

ゴヤは、18世紀後半から19世紀前半にかけて活躍した画家で、宮廷画家として王族や貴族の肖像画を描いたほか、戦争や社会の暗部を描いた作品でも知られています。ゴヤは、聴力を失った後に独自の世界観を展開し、ロマン主義や近代絵画の先駆者とも評されます。ゴヤの生涯と代表作品を見ていきましょう。

ゴヤとその時代

ゴヤは1746年から1828年までの82年間の生涯をスペインで過ごしました。その時代は、スペインが政治的にも文化的にも大きな変革を経験した時代でした。ゴヤが生まれたとき、スペインはブルボン朝のカルロス3世の下で啓蒙専制を行い、近代化や改革を推進していました。この時期は「ブルボン朝の黄金時代」と呼ばれます。ゴヤはこの時代に宮廷画家として栄誉を得ました。

しかし、カルロス3世の死後、その息子のカルロス4世は無能な王として国内の混乱や不満を招きました。 19世紀に入ると、スペインは再び危機に陥ります。1808年にナポレオン率いるフランス軍が侵攻し、カルロス4世とその子フェルナンド7世を退位させて、ナポレオンの兄ジョゼフを王位につけました。
これに対して、スペイン国民は抵抗運動を起こし、スペイン独立戦争が勃発しました。この戦争では、多くの市民が殺害されたり、拷問されたりしました。ゴヤはこの戦争の惨状を目撃し、自らも危険にさらされました。

その後、ナポレオンが敗退すると、カルロス4世の息子であるフェルナンド7世が王位に復帰しましたが、彼もまた専制的な政治を行い、自由主義者や立憲主義者と対立しました。ゴヤはこのような激動の時代に生きた画家であり、その作品には当時の社会や人々の姿が反映されています。

ゴヤの生い立ち

フランシス・ゴヤ
フランシス・ゴヤ

1746年3月30日、スペインのアラゴン地方にある小さな村フエンデトドスで、一人の男の子が生まれました。彼は父親から鍍金師の技術を受け継ぎましたが、その運命はやがて大きく変わることになります。彼の名前はフランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス。西洋美術史に残る偉大な画家です。

ゴヤは14歳の時にサラゴサに移り、地元の画家ホセ・ルサンに師事して絵画を学びました。この時期に、後に義兄となるフランシスコ・バエウと出会いました。バエウはゴヤの才能を認めて、彼を助けることになります。
その後、サン・フェルナンド王立アカデミーに入学するためにマドリードに出ましたが、二度とも試験に落ちてしまいました。

1770年にイタリアに旅行し、芸術の宝庫ローマやパルマでルネサンスやバロックの傑作に触れたゴヤは、自らも画筆を揮いました。その才能はパレルモ・アカデミーからも認められ、奨励賞を授与されました。

1771年にイタリアから帰国したゴヤは、故郷サラゴサのピラール聖母教会から大きな仕事を依頼されました。
それは、大聖堂の天井に描く壁画です。ゴヤはこの壁画において、イタリアで学んだルネサンスやバロックの技法を駆使し、神話や歴史を題材にした華麗な作品を完成させました。この壁画は、ゴヤの初期の代表作として高く評価されています。

宮廷画家として

1774年には兄弟子であるフランシスコ・バエウの紹介でマドリードに移り、王立タペストリー工場でタペストリーの下絵を描く仕事に携わりました。
この仕事は10年以上続き、ゴヤは多くの風俗画や風景画を制作しましたが、その中には当時の社会風刺や皮肉も込められていました。これらの作品は明るく華やかな色彩や構図で、当時流行していたロココ様式に影響されています。

1786年にカルロス3世付き画家となり、1789年にはカルロス4世の宮廷画家となりました。この時期には王室や貴族の肖像画を多く描きましたが、 この時代の作品は、当時の王族や貴族たちの姿を忠実に描いていますが、その表情や服装は威厳や気品を感じさせず、むしろ愚かさや無能さを暗示しています。
ゴヤは王族たちを皮肉っていたのか、それとも彼らが自分たちを美化することを望まなかったのか、その真意は不明です。
この時代の代表作として『カルロス4世の家族』や『裸のマハ』、『着衣のマハ』などがあります。

カルロス4世の家族

カルロス4世の家族

1800年 プラド美術館

カルロス4世とその家族の集合肖像画で、当時の王族や貴族たちの姿を忠実に描いていますが、その表情や服装は威厳や気品を感じさせず、むしろ愚かさや無能さを暗示しています。

裸のマハ

裸のマハ

1797 - 1800年 プラド美術館

ゴヤが愛人とされるマハ伯爵夫人の裸体を描いたもので、当時のスペインでは非常にスキャンダラスなものと見なされました。マハはスペイン語で「美しい女性」を意味し、彼女の顔と裸体だけが暗い背景から浮かび上がっています。マハの視線は直接観る者に向けられ、挑発的でありながらも優雅な印象を与えます。この絵は、ゴヤが宗教裁判所に召喚されたこともあります。

着衣のマハ

着衣のマハ

1797 - 1803年 プラド美術館

『裸のマハ』と同じ構図で描かれたもので、こちらはマハが白いドレスを着ており、背景にはカーテンや枕が見えます。『裸のマハ』よりも後に描かれたと考えられており、ゴヤが宗教裁判所からの非難を避けるために作ったという説もあります。

聴力喪失と戦争

1792年にゴヤは原因不明の重い病気にかかり、その後遺症で聴力を失います。 この出来事はゴヤの人生と芸術に大きな影響を与えます。

聴力を失ったことで、ゴヤは社交的な表舞台から姿を消し、自身の内面や人間の心の闇社会への批判を表現するようになっていきます。
1799年に出版した版画集『道化師たち』では、当時のスペイン社会や政治、宗教などを風刺的に描いています。
この版画集には宗教裁判所への痛烈な批判や、人間の愚かさや残酷さを風刺した作品が多く含まれていたため、異端審問官に目をつけられ発禁処分になりすが、ゴヤはその後も自身の思想や感情を率直に表現する作品を描き続けました。

1808年、ナポレオン率いるフランス軍がスペインに侵攻し、対ナポレオン独立戦争が勃発します。 ゴヤはこの戦争の惨状を目撃し、その悲惨さや非人道性を描いた版画集『戦争の惨禍』を制作しました。

この作品は、戦争の悲惨さや非人道性を描いたもので、歴史上初めて戦争を批判する芸術作品となりました。 ゴヤは、フランス軍だけでなく、スペイン国民の暴力や残酷さも描いており、戦争によって人間が獣化することを示しています。
この版画集はゴヤの死後35年も経ってから出版されましたが、戦争の悪影響や人間の苦悩を訴える力強いメッセージが込められています。

1814年に独立戦争が終わると、フェルナンド7世が復位し、自由主義者や革命派を弾圧し、憲法や議会を廃止します。
これに対し自由主義者たちは1820年に反乱を起こし、一時的に立憲君主制を復活させましたが、1823年にフランス軍の介入で再び専制政治が復活しました。
このような政治的混乱の中で、ゴヤは自由主義者として迫害を受けることになります。

戦争の惨禍:これもまた

戦争の惨禍:これもまた

1892年 出版

この版画集は、対仏独立戦争中(1808~14年)にフランス兵とスペイン人の間で、あるいは親仏派と反仏派のスペイン人同士の間で繰り広げられた虐殺、暴行、拷問など、ありとあらゆる残虐行為、ならびに、2万人の死者を出したといわれる1811~12年の飢餓の惨状を描いたとされています。

黒い絵~晩年

1819年、妻を失ったゴヤは、マドリード郊外に「聾者の家」と呼ばれる別荘を購入し、そこへ閉じこもります。
ゴヤはこの「聾者の家」の壁面に「黒い絵」と呼ばれる14点の油彩画(『巨人』や『我が子を食らうサトゥルヌス』など)を制作しています。

これらの絵は、神話や伝説の中の怪物や魔女、暴力や死、恐怖や絶望などを、暗く不気味なタッチで描いています。
「聾者の家」の壁画は、当時公開されず私的なものでしたが、後世の芸術家たちに大きな影響を与え、後にキャンバスに移されてプラド美術館に収蔵されています。

1824年にスペインを離れてフランスに亡命したゴヤは、ボルドーで晩年を過ごします。
彼は絵画や版画を制作し続けましたが、1828年4月16日に82歳で亡くなりました。遺体はスペインに移され、マドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ礼拝堂に埋葬されました。

巨人

巨人

1808 - 1812年 プラド美術館

「聾者の家」と呼ばれるゴヤの自宅に描かれた14枚の壁画の一つで、巨大な人間の姿が山々を越えて空を見上げる様子を描いています。この絵は、ゴヤがスペイン独立戦争や自由主義者弾圧に対する抗議や不安を表現したものと解釈されています。

我が子を食らうサトゥルヌス

我が子を食らうサトゥルヌス

1819 - 1823年 プラド美術館

「聾者の家」と呼ばれるゴヤの自宅に描かれた14枚の壁画の一つで、ローマ神話に登場するサトゥルヌス(ギリシャ神話ではクロノス)が自分の子供を食べる様子を描いています。サトゥルヌスは自分が倒される予言を恐れて、生まれたばかりの子供たちを次々と食べてしまったという伝説があります。この絵は、ゴヤが暴力や狂気、死や恐怖など人間の凶暴性や無力感を表現したものと見なされています。

魔女の夜宴

魔女の夜宴

1820 - 1823年 プラド美術館

ゴヤが版画集『理性の眠りは怪物を生む』に収めた80枚の作品の一つで、暗闇で魔女たちが集まって夜宴を開く様子を描いています。中央にはヤギの頭をした悪魔が座り、周囲には魔女や動物の姿が見えます。この絵は、ゴヤがスペイン社会に蔓延する迷信や暴力、無知や不正などを風刺したものと考えられています。

ゴヤが与えた影響

ゴヤは、自分の見たものや感じたものをありのままに表現することで、ロマン主義や近代絵画の先駆者となりました。彼の作品は、後の画家たちに多大な影響を与えました。
マネは『マハ』を参考にして『オランピア』を描きました。パブロ・ピカソは『戦争の惨禍』を参考にして『ゲルニカ』を描きました。ダリは『黒い絵』を参考にして『大いなるマスタービレーター』を描きました。ゴヤは、現代においても多くの芸術家や作家に触発されています。


ゴヤは、宮廷画家として王族や貴族の肖像画を描いたほか、戦争や社会の暗部を描いた作品でも知られています。ゴヤは、聴力を失った後に独自の世界観を展開し、ロマン主義や近代絵画の先駆者とも評されます。ゴヤの作品は、後世の芸術家たちに多大な影響を与えました。

ゴヤは、自分の見たものや感じたものをありのままに表現することで、芸術の可能性を広げました。彼は、芸術が社会や人間に対して発信できるメッセージを示しました。彼は、芸術が自分自身と向き合う手段であることも示しました。ゴヤは、芸術家としてだけでなく、人間としても尊敬されるべき存在です。

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